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よしおくんの日記帳

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神経症体験5

―晴耕雨耕―

 それまで同じ地域(大阪の藤井寺)の住宅に住んでいたのだが、父が亡くなっ

て三年、長男である私は家族を連れて実家に戻ることになった。実家は人通り

の多い場所にあったので、それを機に生産物は全て家の前で、朝穫り野菜とし

て売ることにした。


 塾の方は、新たな募集はしていなかったが、まだ生徒は残っていた。農作業

が忙しい時など、塾が終ってからヘッドランプをつけて畑に行くこともあった。そ

の頃休みなしで連日十五、六時間は働いていただろうが、まるで疲れというもの

はなかった。

友人に「晴耕雨読で結構な生活だな」と言われることがあったが、「いやオレの

場合は晴耕雨耕だな」と言って笑った。
 

私は「土と共にあること」「土を耕す」ことを貴いこと、誇りあることと思っていた。

努力しがいのあることをしているのだという意識は、どんな過酷な労働からも人

を解放するものである。むき出しの炎天下の暑さが、かえって快感だったし、雨

に濡れても、その冷たさが喜びだった。


私の世代は食糧難の頃の百姓の頑張りを多少とも垣間見ているので、それに

比べれば私の働きぶりなど児戯に等しいと思っていた。その人達と、この労働

を通していくばく幾許かつながっているということが嬉しかった。

現代では「勤勉」はあまり評価されないが、彼等の勤勉が敗戦後の日本の復興

の最も土台を支えたのである。それどころか高速道路も新幹線も、出稼ぎ百姓

の勤勉がなかったら、スムーズに出来上がることはなかっただろう。あれ等の

近代建造物の見えないひだ襞の一つ一つに日本中の百姓の勤勉がたたみ込

まれている。当時、私の百姓にかける情熱は異常とも言えるぐらいで、まさに頭

のてっぺんから足先まで、百姓三昧そのものであった。


それでも最初のうちは近所の百姓によくからかわれた。「お前みたいな学校出

の学士様に百姓が務まるくらいなら、逆立ちして町内一周したろやないけ」しか

し何年かすると、「お前、何でも上手に作るなあ」と言って、私の所へききに来る

ようになった。


私は育苗ハウスを持っていた。冬場は農作業が比較的暇なこともあって、毎日

誰か暖を求めてやって来た。ハウスの中には七輪があり、湯がシュンシュン音

をたてていた。客とお茶をすすりながらとりとめもない話をした。

私は地元の生まれなので、年寄り達と河内弁で話した。コトバというのは不思

議なもので、同じ方言を使うと、それだけでもう多くのものを共有してしまう。そ

のコトバには、私の少年時代の出来事や風景が沢山つめこまれていた。


年寄り達が生きた時代を河内弁を媒体として想像するのは、私の楽しみの一つ

になっていた。ハウスの中だけに限らず、焚き火をしながら、畦に腰を下してタ

バコをふかしながらのこともあった。そんなことを通して、私もだんだん仲間とし

て認めてもらえるようになっていった。


しかし一番の評価の基準になったのは、何といっても畑の出来映えであったし、

それを自分の思った値で売って、一人前の収入を得ているという事実であった。

当たり前かもしれないが「お前の考えは素晴しい」と言って誉めてくれる人は誰

もいなかった。いや一人だけいた。その人は近在では「百姓の神様」と言われ

ている人で、自分と共通のものを感じ、私の心意気を大いに評価してくれた。


 しかし農民自身でさえ並べて「農」に対する評価は低く、学歴と言う切り札があ

りながら、金や地位にあまり縁のない仕事を選ぶ人間は、世間の人から見れば、

所詮「変わり者」か「馬鹿」かであった。


 例えばこんなエピソードがある。ある日、鍬を使っていると、はるか向こうから

女の子の手を引いたお母さんがやってくる。風はそちらの方から吹いて声がよく

きこえる。「ほれ、あのおっちゃん見てみい。お前、勉強せなんだらあないになる

でえ。」知らぬが仏のこのお母さんに抗議するのも大人気なく、私は下を向いて

只笑っていた。


つづく
by kumanodeainosato | 2011-02-09 10:05 | 神経症体験