よしおくんの日記帳

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カテゴリ:プチ熊野大学( 9 )

甦る日の喜び 最終回

      明治維新で棄てた日本、敗戦で棄てた日本、高度成長で棄てた日本。

      これらの日本をこれから拾い直していかなければならない。

      それぞれの時代には棄てざるを得ない事情があったのだろう。

      歴史のその時点に身を置いてみないと分からない。


      しかし時は変わった。

      イギリスに産業革命が始まって約二世紀半、ヨーロッパに波及して百七十年、
      日本が仲間に加わり百三十年。

      資本主義は世界を席巻したが、この体制の終焉も見えてきた。

      今こそ進歩や便利さの陰で犠牲になってきたものに目を向けるべきである。

 
      幸い私達は高度成長以降、この五十年間、腹いっぱい食べることができた。

      あふれる物に囲まれ、商業が提供するおもちゃを次から次へと取っかえいった。

      物質的贅沢はもういいではないか。

      これからは精神的贅沢の時代だ。

      
      一枚の紅葉に心を動かされ、天下の秋を想う。

      そのためにたとえ一本でも木を植えよう。

      コンビニのおにぎりでなく、手作りのおにぎりを食べる。

      そのために荒れた田んぼに稲を植えよう。

      焚き火の火を見つめ、天空の月を愛でる。

      そのために仲間と心を通わそう。

      春になれば川に出てボロ舟を浮かべる。

      そのために、冬の間舟の修繕をしよう。

      暑い夏にはスイカを冷やして食べる。

      そのためにスイカを吊るす井戸を掘ろう。


      数えあげれば贅沢なんていくらでもある。

      本当の贅沢は心を豊かにし、下界や他人と調和したものだ。

      お金で手に入るものではない。

      歴史というものをある断面で切れば、明治以降の百数十年は、私達にそのこと
      を教えるためにあったのだと考えてもいい。

      心も大切だが、ものや金も大切だと人は言う。

      でも心の方がずうっとずうっと大切である。

      特に物質的豊かさを享受した第一世界の人は静かに考えてみるべきである。

       
      幕末の人と私達とは同じではない。

      私達は近代、工業化社会を生き、近代的自我に出会い、実存不安も体験した。

      彼等ほど素朴ではない。

      しかしながら、〝陽気に生きたい〟とか〝人を喜ばせたい〟とか〝みんなと仲
      良くしたい〟とか〝困った人を助けたい〟とか本質的には同じものを持っている。

      本当の進化というのは、直線ではなくスパイラルなものだ。御先祖様から受け継
      いだもの―百年の塵芥の中に埋まって消滅したかに見えたものであるが―それ
      は、胸の底の底にある。

      それを一つ一つ丁寧に取り出そう。

      現代の陽に当てれば、当時よりも更に美しくそれは輝き出すだろう。

      「逝きし日の面影」は「甦る日の喜び」に変わる。

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          ※参考文献  日本奥地紀行 イザベラ・バード 東洋文庫
                    江戸しぐさ完全理解 越川禮子・林田明大 三五館
                    誇り高き日本人 泉三郎 PHP
                    逝きし日の面影 渡辺京二 平凡社
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by kumanodeainosato | 2009-10-10 15:58 | プチ熊野大学

甦る日の喜びⅤ

      その頃「逝きし日の面影」などという本が出版されていたら、おそらく袋だたきに
      あったことだろう。

      戦後六十年経って、やっとミソとクソの区別がつくようになってきたのかもしれな
      い。
    
      あの江戸庶民のしぐさた心根、心意気がたとえ少しでも戦前で消滅したことは想
      像に難しくない。


      そして高度成長。

      この時期エネルギー革命によりカマドや火鉢が姿を消し、井戸や水道にとって代
      わられた。

      また日本中の道路が舗装され、下駄屋やタビ屋もなくなった。

      大家族が核家族化し、地域が少しずつ崩壊し、人間関係がだんだん疎遠になっ
      ていった。

      つまり、江戸以前から連綿と続いていたカマドや井戸といった生活様式までなく
      なり、生活の中の自然的要素がことごと駆逐され、私達の感性を育んだカマドの
      火のあかいゆらぎや、夏の井戸の冷たさは記憶の中に残るのみ。

      子供たちはその記憶もない。

      大家族と地域社会で培った人間のつき合い方。

      人と接する時の間のとり方。

      情の交わし方。

      現代ではそれを学ぶ場も機会もない。


      しかし、しかしである。

      それ程遠い昔ではないあの江戸時代の人々の、西洋人を簡単せしめたよき人柄
      の血が、私達に一滴も受け継がれていないのだろうか。

      著者の渡辺京二氏は、二度と戻らない〝逝きし日〟と言っているが、私は甦り得
      ると思っている。


                                       *** つづく ***
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by kumanodeainosato | 2009-10-09 10:46 | プチ熊野大学

甦る日の喜びⅣ

      西洋の工業力に目を見張った、という所に話を戻そう。

      スイスのベルンで岩倉使節団の久米邦武は市内の小学校を見学し、その教育
      の充実振りに感心し、実態を報告し、日本の教育と比較している。

      それによると、日本の教育は「道徳修身教育を重要視し、無形の理学、高尚の
      文芸を玩ぶ」とし、また上流階級にのみ高尚な教育を施し、女性や一般庶民は
      蚊屋の外としている。

 
      これに対し、西洋では実学を重んじ、一般の人にも門戸を開き、修身は協会で
      教えるとしている。

      日本の精神文化は高いが、実学を軽んじたために、工業力では圧倒的に差を
      つけられていることを、団員たちはこの旅行を通して身にしみて知ったのだろう。
  
      このことが明治五年の学生頒布につながり、続々と学校が建てられるようにな
      る。


      学校教育制度の整備によって日本は急速な近代化への道を進むが、いいこと
      ばかりではなかった。

      日本の進路がおかしくなていったのは日露戦争(明治三十七~三十八年)あた
      りからだと司馬遼太郎も鶴見俊輔も指摘しているが、その大きな理由の一つに
      指導者の質の低下があげられる。

      つまり日露戦争までの指導者は江戸時代に教育を受けた人であり、それ以降
      は明治になって学校教育を受けた秀才だというのである。


      江戸の教育は実学では劣ったが、下半身のしっかりした骨太な精神をもつ人間
      を作ったのである。

      逆に学校教育は効率的であったが、上半身ばかりが目立つ見せかけ人間を作っ
      たのかもしれない。

      国民皆教育は、文盲をなくし日本人の知性を多少たりとも高めたかもしれないし、
      そしてまちがいなく日本の近代化と工業化を促したのであるが、それらの時代の
      変化の中で、あの江戸庶民達は、みんな何処かへ消えてしまったのである。


      そして太平洋戦争に突き進み敗戦。

      官武一途庶民に至るまでアメリカの物量に驚嘆し、平伏し、羨望する。

      厚木の飛行場を降り立った丸腰のマッカーサーをカッコイイと思い、猫背の天皇
      と長身のマッカーサーの写真に二つの国の暗喩を見るのである。

      アメリカという国は無限にあるタダの土地とタダ同然の石油を、湯水の如く使って
      大きくなった使い棄ての国である。

      狭い国土で知恵を頼りにやりくりしてきた日本と全くちがうのに、「あぁ、アメリカに
      なりたい」と思ってしまったのである。


      貧乏人が金持ちに憧れたのだといえばそれまでだが、もし江戸や明治前半の知
      識人の如く、表層の頭脳ではなく深層の精神がしっかりしていれば、これ程まで
      にひどいアメリカの植民地にならずに済んだと思うが、当時の進歩的と言われる
      知識人は日本という文字にことごとく墨を塗り、封印してしまったのである。


                                      *** つづく ***      
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by kumanodeainosato | 2009-10-07 11:54 | プチ熊野大学

甦る日の喜びⅢ

      対比されるのはそればかりではない。
      近代精神を身につけていた西洋人は、市民社会の自由を享受し、自我を開花
      させつつも、一方では精神と肉体、天上と地上の分裂を経験し、実存的不安を
      醸成させていた。


      他方、日本人といえば、未だ西洋流近代精神など身につけておらず、身分性
      社会の壁など何処吹く風と、霊肉一体となって、天真爛漫に生活を謳歌してい
      た。

      近代精神により、近代以前の日本人の精神構造を遅れたものとして批判的に
      ながめつつ、近代化、工業化によって失った古き良き時代の人間の生き生きし
      た姿を当時の日本人に見ていたのである。


      しかしこの日本社会の真綿にくるまれた幸せも、間もなく終るだろうと当の西洋
      人が予測し、その通りになっていく。

      世界の中に投げ出されたら、日本は変わらざるを得ない。

      大久保や岩倉たちが明治四年から五年にかけて、アメリカ、ヨーロッパの視察
      旅行に出かけるが、ここで圧倒的な西洋の工業力に目を見はる。

      当時の日本の知識階級に西洋流の近代精神というものがあったかどうか知ら
      ないが、少なくとも精神構造の骨格の頑丈さは西洋人にひけをとるものでなか
      ったと思っている。


      「江戸しぐさ」に残っている通り、庶民ですらしぐさにまで高められた人を思いや
      るあれだけ高い倫理道徳をもっていたということが、それを証明している。

      もし日本人が文明的に精神的にもっと低い位置にあったなら、当時の国力から
      考えて日本は植民地化されていたかもしれない。

      西洋人は紳士面して人の家に入ってきて、「ここの家は文化程度が低いなぁ、
      私が人肌ぬいで教育してあげよう」と言って植民地化していく。

      「俺は搾取しに来たんだぞ」なんて正直なことは誰も言わない。

      大義名分という錦の御旗をかざして悪事にとりかかるのである。

      かつて日本もその真似をしたし、アメリカは懲りずにまだやっている。


                                      *** つづく ***
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by kumanodeainosato | 2009-10-04 11:32 | プチ熊野大学

甦る日の喜びⅡ

      例えば1878年、東北、北海道を一人で旅したイギリス人女性イザベラ・バードな
      どは、米沢平野を称して次のように述べる。

      「米沢平野は南に繁栄する米沢の町、北には人で賑わう赤湯温泉をひかえ、まっ
      たくエデンの園だ。
      鋤のかわりに鉛筆でかきならされたようで、米、綿、トウモロコシ、煙草、麻、藍、
      豆類、茄子、くるみ、瓜、胡瓜、柿、杏、柘榴(ざくろ)が豊富に栽培されている。繁
      栄し、自信に満ち、田畑のすべてがそれを耕作する人びとに属する稔り多きほほ
      えみの地、アジアのアルカディアなのだ」


      美しいのは風土ばかりではない。外国人女性が汽車も車もない時代、東北、北海
      道を旅したというのは凄いことだと思うが、それを可能ならしめた日本人、アイヌ人
      の倫理の高さに脱帽する。

      バードは言う。
      「女性が外国の衣裳でひとり旅をすれば、現実の危険はないにしても、無礼や侮
      辱にあったり、金をぼられたりするものだが、私は一度たりとも無礼な目にあわな
      かったし、法外な料金をふっかけられたことはない。」


      山形のある駅舎でバードが暑がっているのを見て、家の女たちがしとやかに扇子
      をとりだし、まるまる一時間も煽いでくれた。
      代金を尋ねると、いらないと言い、何も受け取ろうとしなかった。

      こういう話はザラにあり、楽天的で無邪気に見える当時の人々が、いかに高い倫
      理的規範を生活習慣の中に溶けこませていたかということの証左でもある。


      この頃西洋社会は既に工業化が始まっていたが、初期工業社会が生み出した都
      会のスラム街、そこでの悲惨な貧困と道徳的崩壊を見た目には、工業化以前のこ
      の爛熟した農業と手工業社会の中で和気藹々と暮す人々の姿は、地上の楽園を
      想起させたことだろうし、自らの過去へ郷愁せしめたことだろう。


                                       *** つづく ***
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by kumanodeainosato | 2009-10-01 16:37 | プチ熊野大学

甦る日の喜びⅠ

      「逝きし世の面影」という本がある。

      ここには西洋人の目で見た幕末から明治初期にかけての日本、日本人が様々な
      形で語られている。あるは条約を結ぶため、あるは明治政府の要請で多くの西洋
      人が日本を訪れ、この国の風土に、この国の人々に魅了された。

      中には辛口批評もあるが、なべて好意的で、同じ日本人である私ですら、その時
      代に行ってみたい気になる。


      彼等によると、私達の御先祖様は親切で陽気、ユーモアがあり天真爛漫、楽天的
      で開放的、優しくてお人好し、慎み深くて倫理的、礼儀正しく穏やか、従順でがま
      ん強く、快活で遊び好き、温厚、正直、質素、とおおよそ人に与え得る限りの賛辞
      を浴びせている。

      その描写、説明から想像される当時の日本人は、現代人よりはるかに人生を楽し
      く生きていたということである。

      現に何人もの西洋人が、日本ほど幸せな人々はいないし、日本ほど美しい国はな
      いと言っている。

      
      それも支配階級である武士よりも庶民の方が生き生きしている。優秀な官僚であっ
      た武士(中にはボンクラもいただろうが)は武士道を拠り所として質素に生き、つい
      たての向こうで庶民は思いきり羽を広げて生きていたようなのである。

      武士と庶民の階級差別は歴然とあったが、大方の庶民はそれを当り前のこととして
      受け入れ、オレ達はオレで気楽にいこうという態度だった。

      その圧倒的楽天主義は、生活まるごと笑いの揺りカゴにしていた。

      江戸の農村においても、私達が歴史の時間に教えられたような悲惨な農民生活と
      いう情景はあまり一般的ではなく、農民達もそれなりに生活をエンジョイしていたよ
      うである。



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                                          *** つづく ***
      
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by kumanodeainosato | 2009-09-30 14:29 | プチ熊野大学

「未来を予言する」

      テレビをつけたら、「ビートたけしの超常現象」というのをやっていた。
      
      2012年がどうのこうのと言っている。
      マヤ暦は2012年12月22日で暦が終っているというのは、今ではもうたいて
      いの人が知っているが、それについて侃々諤々。

      チャンネルを変えずに見ていたら、宇宙人が地球をねらっているのだという人
      がいる。
      新種のウイルスも宇宙人が関わっているのかもしれないという。

      少し考えればそんなことあり得ないことが分かるだろう。

      何十か何百か何千か何万光年か知らないが、そんな遠い所から地球にやっ
      てくるほどの科学力を持った宇宙人が、その気になれば地球の一つや二つ乗っ
      取るのは訳ないだろう。

      しかしまあそんなことはあり得ない。
      何故なら科学力がそこまで進んでいるということは、魂のレベルも地球人より
      はるかに高いということである。
      もし霊性が低いまま、科学だけ進歩すれば、科学を制御できなくなり、既にそ
      の文明は亡んでいるはずだからである。

      宇宙人が地球に来ているとしたらむしろ地球を助けたいと思っているからだろ
      う。
      というのは現在の地球はどう見ても宇宙の不良星だし、宇宙の一員として黙っ
      て見過ごす訳にもいかないだろう。
      事実多大な迷惑をこうむる可能性だってある訳だ。

      その他にも太陽の黒点がどうのこうのとか意見は色々出ていたが、最後に予
      言者にきこうということになり、ブラジル人の女性がスタジオに来て、彼女の信
      仰する神に伺いを立てる、その結果。
      「安心して下さい。何も起りません」

      私はそれを見ていて、「あっ、この人は本物だ」と思った。
    
      もっともらしい予言をして人心を惑わすのはあまり質のいい霊能者とはいえな
      い。
      低級な霊能者は自分の波動に近い幽界の波動に同調し、そのスクリーンに映っ
      た未来を見て、恐ろしげなことを言うが、もっと波動の高い霊界や神界には別
      な姿が映っている。
    
      未来というのは、神や運命によって決められるものではなく、自分が決めるも
      のなのである。
      それは予言するものではなく、創造するものなのだ。
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by kumanodeainosato | 2009-07-15 15:30 | プチ熊野大学

「露伴と枝豆」

      露伴は枝豆が好きだったそうである。
      あの「五重塔」の幸田露伴である。

      娘の文さんが書いている。

      終戦後、まだ食糧難のころ、父に食べさせようと汗の出なくなる程歩きまわり、
      ある農家で土間に束ねてある豆を見つけ、譲ってもらう話にまでこぎつけた。
      しかし、「これは一等品だから、うちで食う。よそに売るのは二等品、三等品」
      と言われて、二等品でかたづけられたそうな。

      露伴はそれでも喜んだ。
      「それならあの一等品ならどんなに」と思うと残念さがぶりかえしつい愚痴を
      こぼした。
      しかし「百姓は何代、不出来なものばかりを食べて、いいものを売ってくらし
      てきたか。いまちょっとぐらい偉い気になったって、いいじゃないか」とたしな
      められたのである。

      お米の時も、芋の時も文さんが腹を立てると、露伴は「いいじゃないか」と百
      姓を庇い、「お前の方がよっぽど、おっかないよ」と笑っていた。

      買い出し体験をした人は、今でも百姓を親の仇みたいに、口汚くののしる人
      が多いが、実際、百姓の狡猾さ、横柄さ、欲の深さ等の毒ガスを吹きかけら
      れたのだろうが、百姓にとっては千載一遇のチャンスだったのだ。

      露伴同様、百姓のために弁護すると、食糧難のあの当時売り手相場にもか
      かわらず米は自由に販売できた訳でなく、食米(自分の家で食う米)を残して、
      全て国に供出しなければならなかった。
      詳しい制度については書かないが、百姓も収穫量の名目と実質のわずかな
      隙間をぬって、闇米を捻出し、生活費に当てたのである。

      町の人が配給米だけで生きられなかったように、百姓も超安い供出米だけの
      収入では生きられなかった。
      ただ現物を握っているものの強みがあったのである。

      ついでに言うと、昨今、というよりもう随分昔からこの国では米余りになってい
      る。
      米が余ったから減反しろ。
      足りない時は統制を加えて、自由に売らせないで、余ったら自分で売れという。
      これじゃあ百姓はたまったものでない。

      百姓はそういう割を常に食わされ、そういう歴史を生きてきたので、自分が有
      利に立った時、相手に対してどういう態度をとったらいいのかという文化とは無
      縁だった。
      態度が横柄で尊大だったとしても、その背景には虐げられてきた過去がどっさ
      り詰まっているのである。
    
      そんな話を、朝のミーティングの時していたら、小山君が口を開いた。
      彼は丹後の出身であるが、親戚の農家のおばさんにきいた話をしてくれた。

      食糧難の頃、町の人に米を譲って欲しいと頼まれて、あり余っている訳ではな
      い米を譲った。
      そのうち親しくなり、その人の家に遊びに行ってみると、台所の洗い場のおひ
      つや茶碗に米粒がくっついていた。
      それを見ておばさんは腹を立てたという。

      ここに米を作る人と食べる人の意識のズレがある。

      食べる方は、食べるだけのドライな立場にいるが、作る方はそのプロセスの大
      変さに関わっているので、一粒一粒に対する思い入れがまるでちがう。
      まして機械化以前の米作りに於いておやである。

      これをつなげるのは露伴のような想像力であり、懐の深さである。
   
      文さんはこのことについて今でも父に感謝しているそうであるが、そのおかげで
      彼女は百姓や農村に対する嫌悪や偏見を持たずに済んだのである。

      しかしひとこと蛇足としてつけ加えておくが、露伴が鷹揚で、物解りがよく、文さ
      んが愚痴っぽかったのは、露伴の方が偉いのではなく、買い出しの現場にいた
      当事者と、買い出したものを享受するだけの立場にいたもののちがいである。

      そうはいうものの父には娘に正論を納得させるだけの人間としての実力があり、
      娘にはそれを素直に受け入れる器量があったということだ。
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by kumanodeainosato | 2009-07-11 16:04 | プチ熊野大学

「三餘」

       栂の木の大黒柱のある我が家の居間に「三餘」と書かれた額がかかっている。
       書道家の梅原千鶴さんにいただいたものだ。色んな人にどういう意味ですかと
       きかれる。私も最初は知らなかったが、梅原さんに教えてもらった。魏・呉・蜀の
       史書である三国志に出てくるコトバだそうである。
       「余り」というのは物についてではなく、時間についていったもので、三つの余っ
       た時間のことである。梅原さんがわざわざこのコトバを選んでくれたのは、私の
       仕事や生活スタイルが古代の人と同じように太陽と共にあるからだと思う。
       百姓にとって、三つの余った時間とは、夜と雨の日と農閑期である。この余暇に
       読書をしなさいという教えだそうである。
       おかげでこの三余を生かし読書をしたり思索をしたり、脳と身体のバランスはい
       いなと自画自賛している。そして百姓という仕事に就けたことに心から感謝して
       いる。
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by kumanodeainosato | 2009-06-22 15:24 | プチ熊野大学