よしおくんの日記帳

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カテゴリ:よしおくんの健康( 2 )

「無題」

      いきなり尾籠な話で、恐縮でありますが、あのうんこなるもの、人間としてこの地
      上界に生まれ一生つき合わねばならないもの。
      このものについてつらつら考えるに、いや実に不思議というか奥深いというか、な
      めてかかれないものだなあというのが、実に齢64歳にして、やっと解ってきた次
      第です。

      私め、幼少のみぎりより胃腸が弱く、緩る腹になったり、張り腹になったりと、腹の
      ことではなかなか苦労を重ねてまいったのですが、数年前より洗腸器なるものを
      使用するに及んで、快腸な毎日を送らせていただけるようになったのです。

      数年前まで、私の腹の中にあったものをつくづくながめては、「あら尊うと」と手を
      合わせ、神様に感謝します。
      うんこが尊い訳ではなく、うんこを身体から出していただける働きが尊いのです。

      この世という三次元世界で生きるために、身体という器を与えられました。
      そしてその器を維持し、働かすために食物をとります。
      食物をとればカスが出るということになり、これがうんこと称するものです。
      
      カスでもカンナくずのように、いいにおいのものもありますが、このカスは何故汚く
      てくさいのでしょうか。
      これには意味があるのです。
 
      私達は個別化された体をもっているために、その自己というものを守ろうとします。
      その自己保存の最も原始的な形態が食べるということです。
      
      自己は食べるだけでは満足せず、際限なく自己自身の拡大を計ろうとします。
      その過程で人とまさつを起こし、傷つけたり、意地悪したり、圧力を加えたり、ある
      いは闘ったりします。
      これによって生まれるのが「業」というものです。
      あるいは自己拡大の宿命そのものが「業」といえるでしょう。

      私はうんこはこの「業」が形になったものではないかという気がするのです。
      だからくさくて汚い。
      いい香りできれいなうんこ等というものはありません。
      
      洗腸して腹の中がすっかり掃除した時、この上なく爽やかな気分になるのは、あ
      れは業の浄化の疑似体験をしているからかも知れません。
      同時に自分のうんこを見て己が業の深さを知るのです。
      
      来る日も来る日も業は貯まります。
      食べるというのは、そういう行為で、生きるというのはそういう行為です。
      
      この世とはそういう所で、人間とはそういう存在であると言ってしまえばそれまで
      ですが、私は硬派のくせに「人間だからね」なんていうのは嫌いです。

      この世とオサラバする前に、この循環の外に出たいという途方もない高望みをし
      ています。


      ※腸洗浄器のことを「熊野出会いの里」ブログでも書いています。
       気になる方はそちらもご覧あれ~ → 「熊野出会いの里」ブログ
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by kumanodeainosato | 2009-07-18 15:18 | よしおくんの健康

「手当て」

      小山君が朝のミーティングの時、ロボットみたいに、首をまっすぐ立てて入ってきた。
      寝ちがいして、痛くてたまらないという。
      顔は正面を向いたまま、横にも下にも曲げられない。
      まるで見えないギプスに固定されているようである。

      これでは仕事どころではない。
      じっとしていても痛くて辛いというので治療することにする。

      私はこれでも鍼灸の免許をもっている。
      ペーパードライバーならぬペーパー鍼灸師である。
      免許は取ったものの、百姓と二足のワラジをはく気が起らなかった。
      鍼も灸も太陽の下の魅力にはとうてい及ばなかったのである。

      従って治療するといっても鍼灸ではなくただ相手の患部に手を当てるだけである。
      それが効くのか効かないのかは、私は全く知らない。

      最近、佐代が腰痛になり、2、3回やったことがあるが、過去においても数える程し
      か経験がない。

      治療が始まる。

      昔、娘の腹痛を治療した時のことを思い出した。
      この時は自分の手から気が出ていることをイメージして、その力で癒そうとした。

      しかし今回は全くちがった。

      私の力は何もないという認識だ。
      ただただ媒体物になる。
      宇宙のエネルギーが、私の身体を通って、相手の身体に流れる。

      「世界人類が平和でありますように」と祈り、神の光を誘導する。
      そして「守護霊様、守護神様よろしくお願いします」この二つをくり返し称え続ける。
      時々「小山君の首がよくなりますように」というのも加える。

      自分は無である。
      ただ神の道具である。
      
      「我」があれば、ショートして電流(気)が流れにくくなる。
      
      五分、十分治療を続けていると、小山君が「大分楽になりました」と言って、ポツリ
      とこう言ったのである。
      「麻野さんの存在を感じません」

      ドキッとして「よっしゃ」と思った。
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by kumanodeainosato | 2009-07-15 10:52 | よしおくんの健康