「Voice」という雑誌の巻尾に宗教学者の山折哲雄氏が「体罰」について一文を寄せている。
「体罰」がいいか悪いか、氏の意見は直接述べられていないが、それよりも罰に対する時代の対応
の仕方に触れている。かつての社会には「お仕置きする」とか「お灸をすえる」とかいうコトバがあ
ったというのである。それも「お仕置き」とか「お灸」とか、わざわざ「お」をつけている。そこに
は「体罰」というコトバの語感とはニュアンスも意味合いも異なる暖かさがにじみ出ているという。
私流に言うと、「体罰」と「お仕置きする」「お灸をすえる」というのはコトバの位相がちがう。
「体罰」は記号的表現だが、後者の二つは文学的表現である。「お」をつけることによって意味は体
温をもち呼吸しだす。
罰を課すということに対し、課される側に対して暖かいまなざしが必要であると、山折氏はいいた
いのかもしれない。その暖かいまなざしの背景にあるものとして、山折氏は情を持ち出す。
「その暖かみのある所作振舞いを、われわれの社会は「愛情」という大和コトバを使って表現して
いたのではないだろうか。あるいは「情愛」ということもあった。この愛情とか情愛といういい方
は、もちろんたんなる「愛」というのとは違っているだろう。愛は英語の「ラブ」の訳であるが、愛
情や情愛はそのままラブという西欧語には重ならない。なぜならそこでは、愛情といういい方のなか
の「情」の方が「愛」よりはるかに重要だという価値観が意識されているからだった。情愛のなかの
「情」こそが大切なのだと考えられていた。」
ここには、「愛」と「愛情」について、山折さんの直接の意見はないが、「情」について多分に好
意的であると思われる。「情」というものに日本人なら誰でもひかれるのだが、どうしてどうして
「情」はなかなかの曲物なのである。
元来「愛」というものは神由来の人間にとって最も大切で基本的なものである。宇宙の原理は
「愛」と「調和」と言われているぐらい存在の基盤を成すものである。全ての人がそれを持っていな
がらものにした人は、極めて少ない。
イエスやマザー・テレサといった人は特別だが、普通の人間はそれを情を介して表現する。情はい
わば愛の乗り物として使われるが、愛より情の方が大切なんてことはあり得ない。愛情というのは極
めて人間的な営為で、いきなり高級な「愛」に行きつくのはむずかしいので「情」という補助具を使
って、人間は愛のトレーニングをする。
特に日本人はそれが得意でそのせいか愛より情の方が大切だなどと錯覚してしまったりする。私な
ども情に動かされ易いタイプで、美空ひばりの往年のヒット曲「越後獅子」の歌詞にある「ところ変
われど変わらぬものは人の情の袖しぐれ」など、「いい言い回しだなあ」と思う。
西洋人は神由来の、あるいはキリスト教由来の「愛」をいきなり説く。しかし生身の人間には荷が
勝ち過ぎて、「愛」は額ぶちに入れられたり、高額の花になってしまったりする。しかし、日本人は
その「愛」を身近に引き寄せるために「情」の文化を発達させた。
情の器で愛をすくい取り、情の乗り物で何処にでも愛を連れていく。「情」は素晴らしいツールで
もあるが、危険なものでもある。
「愛」というのは神性を宿した純化、昇華されたものであるが、「愛情」は人間の澱のようなも
の、つまり業想念を伴ったものである。「愛」は憎しみに変わることはないが、「愛情」は時として
憎しみに変ることがある。「愛情」は人と人との間にあって、その絆を強固にする一方、劇薬として
も働き、激しい執着を生むこともある。あくまで人同士の横の関係である。
これに対し、いみじくも西郷隆盛が「敬天愛人(天を敬い、人を愛す)」と言った如く、「愛」に
は神や天の視点が入る。つまり「愛情」を「愛」にまで高め得るためには、神との縦の関係が必要な
のである。西郷さんは人の評価を気にしなかった。ものさしは天の目であった。西郷さんは天の目で
人を愛した。イエスもマザー・テレサも然りであろう。
日本人は「もののあわれ」の昔より、情をよく解する感性をもっているが、中には行き過ぎて情に
溺れる人もいる。溺れるだけでは済まず情死する人さえいる。確かに「愛情」とか「情愛」というも
のは、日本文化と大きく関わり、西洋人にはない暖かみとデリカシーを持つが、情はやはり人間の澱
を貯めこむので、「愛情」は「愛」のように世界基準にはなり得ない。日本というローカルな愛情劇
場を自画自賛しているだけでは地球平和は望むべくもない。やがては人間自ら己の神性に気づき、
「情」を昇華して存在の本質である「愛」をわがものとしなければ人類の未来に光明を見ることはで
きない。「情」という土壌で培われた「愛情」に磨きをかけ、「愛」そのものに至る道を私達は真摯
に歩き続けねばならない。