―死に出会う―
私の人生で最も大きな問題は「死」であった。特に若い頃は、そいつに気が狂う
程悩まされた。子供の頃身体の弱かった私はよく病気をしたが、そのたびにもう
治らないで死ぬのではないかと小さな胸を痛めていたことを覚えている。
「死」の観念が牙をむいて私に襲いかかってきたのは、小学校の五年生か六年
生の時で、それは全くの不意打ちであった。小便臭い田舎の映画館で、近所の
三つ年下の男の子と並んでチャンバラの映画を見ていた。当時映画は最大の娯
楽で、たまたま誰かに券をもらって子供同士で来ていた。確か鞍馬天狗だったと
思うが場面はクライマックス。嵐寛扮する天狗が木っ葉役人をバッタバッタと切り
倒す。胸のすく見せ場である。
その時何故だか知らないが、私はふと敵側の立場に立ってみたくなったのであ
る。死体累々であるが、切られたあの人達に家族はないのだろうか。家に帰れば
妻も子もいるのではないか。その家族の悲惨をイメージしたまさにそのとたん「死」
が私を直撃した。いずれ自分もこの世から消えてなくなることを現実感を伴って自
覚したのである。消滅した自分を想像する程恐ろしいことはない。
私は一瞬にして映画の外へはじき飛ばされてしまった。相棒には何も言わず席
を立ち、外に出る。恐怖とパニックでじっとしていられず、取り入れの終った稲株
の並ぶ田んぼ道をひたすら走った。景色は寒々としてよそよそしく、私は孤独を
通り超して、孤絶の中にいた。何と人生とは油断のならないものだろう。今や私は
世界の孤児であった。走っても走っても、逃げても逃げても恐怖は追ってくる。こ
のままでは「気が狂う」と思った。逃げることを止め、震えながら幼い頭で必死に考
えた。
「今すぐには死なない。死はずっと後のことで、それまでに解決方法を見つけよ
う」「人は例外なく全て死ぬ。一人生き残ってもやっぱり孤独だ」とりあえずこの二
つの間に合わせの処方箋をこしらえ、何とかパニックは治まった。しかしそれ以降、
「気狂いの種」をかかえこむことになり、長い間「自分が消えてなくなることの恐怖」
という鎖につながれることになる。この難問を解かねば自分の本当の人生はない
と思いながら、問題に向き合うと、たちまちパニック状態を呼び起こしてしまうので
そのことを意識的に封印していた。その矛盾の中でけっして暗くはない青春時代
を生きたが、心の奥には常に未消化の塊が重苦しく存在し続けていた。何事に対
しても価値を見出すことが出来ず、虚無的な日常の海を漂流していた。
学生時代、世はまさに政治の季節で、ベトナム戦争、日韓条約、中国の文化大
革命、全共闘運動と生真面目な学生はこの情況に何らかの形で関わっていった
が、私の心は政治的なものに対しさほど反応を示さなかった。
私はいわば文学青年であった。しかし他人の詩や小説に興味があった訳ではな
い。この様な質の人間には文学みたいなものによってしか救われないと、あまり根
拠もなく信じていたのである。
卒業が近づいても、企業に就職する気は全くなかった。父は小さな会社を経営
していたがそれを継ぐつもりもなかった。学者になる程勉強好きではなかったし、
物書きで食っていく程の才能もなかった。まさにないない尽くしの八方塞がりで、
仕方なく故郷の大阪に帰って学習塾を開いた。この頃既に結婚していて、何らか
の形で生活費を捻出しなければならなかったのである。
塾は盛況であったが、取り組むべき夢や課題が見つからないまま、時間と共に
後退していく我が人生を思い慄然とすることもあった。
―神経症になる―
毎日焦りを感じながらも、歳だけはとり二十九歳になっていた。 そしてとうとう
怖れていたことが起った。数週間来、舌に異常を感じ、医者に行ったが原因が分
からず、四六時中なぜだろう考えているうちに、反芻によって蓄積されたエネル
ギーが閾値を超え、堤防が決壊した。濁流は私の虚弱な脳を呑み込み、「今度
は本当に狂う」と思った時、異常は舌ではなく、虫歯であることに気がつき、ホッ
とした。次の日、朝目覚めた時、昨日みたいなことが起ったら嫌だなあと思った。
その瞬間、昨日の心理状態になった。それは、少年の頃体験したあのパニック
状態、苦悶発作というべきものだった。発作は一定時間で治まる。しかし恐ろし
い発作にまた襲われはしないかと予期恐怖するようになる。これが問題なのだ。
一年に一度か半年に一度かめったにやってこない敵の影を恐れて、片時もその
想念から自由になることはない。これが不安神経症という病気であると知ったの
はもう少し後だが、その日から私は完全な囚われ人となった。
そうなってみると、虚無感が絶望感に変った。虚無の昔は幸せだと思った。
この苦悶発作、パニック状態というのの原形を探ると、実は小学四年の時にあ
る。近所の川で水遊びをしていて溺れた。アップアップしている時、「ここで死ぬ
のか、この若さで」と思うと、何とも口惜しく切なく、胸がしめつけられ、頭が爆発
しそうになった。この時運よく助かって、恐怖体験はすぐ忘れてしまったのだが、
どっこい潜在意識の中にもぐり込み、私の人生を傀儡したのである。映画の発作
も二十九歳の発作も、この時のものと全く同じものである。
さて神経症予備軍から二十年かかり正規軍に入隊した私は、更に過酷な体験
をさせられることになる。病の初期の頃はパニックに対する予期恐怖であったが、
一年程するうち、病膏肓に入り、常時強い不安を感じるようになった。その不安が
極点に達したことがあった。あまりの苦しさのためタタミをかきみしり、壁に頭をぶ
ちつけた。その時斧で手足を切り落とされても何も感じない程の苦痛だった。観
念の中だけで起っていることなのであるが、それは明らかに物理性をもち、本物
以上の兇器となって肉体の脳を切り裂いた。
私は劫火に焼かれながら人間の業の深さを思い、そのエネルギーの凄まじさ
に驚嘆していた。人間というのの底知れぬ闇と同時に無限の可能性をも感じて
いた。「もしこの負の回転を正の回転に変えることができたら、どんんなことでも
できるだろうと」
生き物の生理というものはよく出来ている。妻が医者に薬をもらいに行っている
間に、私は気を失って眠ってしまっていた。身体の限界を超えると、生理は意識
をなくすようになっている。
朝になって目醒めた時、頭はスッキリしていた。覚悟も出来ていた。「もう俺の
手に負えない。入院して森田療法を受けよう。」と。森田療法というのは、戦前、
精神科医の森田正馬が自分の体験に基いて開発した日本的な心理療法で、神
経症の治療に劇的な効果があることが珍しくない。一週間程度の臥褥と作業、
日記指導等を通して自己洞察を深めていく。丁度神経症に罹った年に森田の全
集が出た。私は森田の烔眼に何度も「その通り」と独人ごとを言いながら、貪るよ
うにして読んだs。
―森田の教え―
森田の教えをひと言で云うと「あるがまま」ということである。「〝不快〟に対し
て抵抗するな。不快は不快のままにして、やるべきことをやれ」というのである。
神経症というのは頭の中で起るある「とらわれ」による不快に対して、それを排除
しようとして、自分と自分が死闘を繰り返す悲劇であり、喜劇である。不快に対し
て抵抗を強めると、その抵抗分だけ不快度も増す。益々不快なので益々抵抗を
強める。
この「とらわれ」は頭がでっちあげた一種のフィクションであるが、一度その罠に
はまると容易に抜けれない。この枯れ尾花と闘う観念論者に対して、森田は事実
唯真を説く。私の印象に残っているのは、こういう話である。
森田存命の当時森田の家に下宿するような形で患者は指導を受けていた。あ
る日の一コマ。洗濯物が風で飛んだ。そこに行き合わせた患者は急いでそれを
拾い棹に戻した。縁側のその様子を見ていた森田は手招きしてその患者を呼ん
だ。「君、あの洗濯物は乾いていなかったか」患者はハッとする。彼は森田の視
線を気にして洗濯物を拾い上げたが、乾いているか確かめなかったのである。
又こんな話もある。ある時、森田は拭き掃除の雑巾を患者に縫わせた。一人の
患者がその日の日記に「今日はいい運針の勉強になった」と書いた。それに対し
森田は「運針の勉強のために雑巾を縫わせたのではない。雑巾が必要だから縫
わせたのだ」
後者は少々極端であるが、神経症者にはこのぐらいの矯正でバランスがとれる
のである。
しかしこの私はそういうことを頭ではよく理解し、重々承知しながら、体得には至
らず、ついに入院ということになった。「論語読みの論語知らず」とは誠によく言っ
たもので、この時ほど体得することの大変さと大切さを知ったことはない。
―リトル・トリー ―
そのことできまって思い出すのは「リトル・トリー」という小説である。この作家は
幼い頃両親が亡くなりインディアンの祖父母のもとで育てられるが、その時の体
験をふまえて書かれたものだ。
少年は祖父母の話すKINというインディアンの言葉に興味をもつ。文脈で考え
ると、どうもLOVEとUNDERSTANDの意味で使われているようだが、そのこと
を祖父にきく。「お前の言う通り、時には『愛する』と使われ、時には『理解する』と
使われる。でもそれは同じものなんだよ」
ここに「愛する」ことの体得と「理解する」ことの体得が示唆されていないだろう
か。私達は自分と対象、主観と客観、精神と肉体などという二元論的な精神風
土の中で物ごとを判断し、そういう習慣を骨肉化させてしまっている。その結果、
多くの人々は自分達の方法論が、物を知る上で、たくさんある方法論の一つで
あるという自覚すらない。むしろ唯一の方法論であると錯覚している。「愛する」
ことと「理解する」ことが別のものとする文化と、同じものとする文化。どちらがす
ぐれているのか知らない。しかしよりどちらが神の視点に近いかといえば、おじい
さんの方であることはまちがいない。
さてその頃近代人であった私は理解と体得の溝を埋めることができず入院と相
成ったが、入院に際して医者から「君は森田理論は充分過ぎるくらいだから、ここ
では本は読まないで実践するように」と釘を刺された。
次号に続く… (2009 初夏)