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よしおくんの日記帳

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私の神経症体験 2

― 臥褥 ―

 私が森田療法の病院である東京の高良興生院へ入院したのは、1975年2月

26日だった。病院に着き簡単な診察を受け、臥褥に入るため、すぐにベッドに横

になった。臥褥というのは、森田療法独特のもので、患者は一週間なるべく慰め

になるようなものがない部屋で、洗面とトイレ以外は、ベッドに臥したまま、病いと

真正面から向き合うのである。森田療法では「煩悶から逃げるな。徹底的に苦し

め」という。

 私が通されたのは、白い壁で囲まれた部屋で、簡単な洗面の設備があった。

調度品は机と簡素な洋服ダンス、いかにも病院然としたベッド。それに小さな電

気ストーブがあった。枕元の壁には、電気設備を取りはずした様な穴が空いて

いたが、それすら慰めにできる程、殺風景な空間であった。この部屋の露骨な

合理主義を受け入れ、私は改めて前途の多難を覚悟した。症状との孤独で厳し

い二人旅があらたに始まる。

 昼間は色々な物音を通して外の気配を感じている。樹々で囲まれた院内は普

段は静まり返っていた。雪解けの雫の落ちる音がきこえる。時にバサッという大

きな音がする。雪が屋根から落ち砕け散るイメージを白い天井に追う。雪に映っ

た陽光の光の束を目頭に感じている。1日に数回、窓の外を通る入院者達の話

声がきこえる。部屋の外はまるでおとぎの国のように華やいで、好奇に満ちてい

る。



 しかし一転夜になると、事情は全くちがってくる。周りが暗くなり、人の活動が止

むと、闇の中から浮かび上るように、廊下で秒を刻む柱時計の音がはっきりきこ

えてくる。それでも宵のうちはまだいい。想像の上だけでも娑婆の人達と時間を

共有できるからだ。皆が眠ってしまう深夜から朝にかけてが一番辛い。その無限

とも思える時間を、苦悶とずっと向き合っている。時には真夜中に起き上って、ス

トーブのスイッチを入れる。ジーンと音がして、二本の細い筒が、そこだけつまし

く赤になる。手をかざしてしばらくその赤を見つめている。

 臥褥に入って、三、四日過ぎた頃、空いていた隣室に新しい入院者が入った。

どんな人か分からないが、隣人は気になるものだ。食事が終ると、食器を部屋の

外に出すのだが、その相手の気配のまだ残っている食器が唯一の情報源だ。こ

の人はいつもだいたいきれいになっていた。食欲どころでない私は、たいてい残

していたので、それを見ては「ああ俺の方がジュウショウなんだ」と、益々落ち込

んでいた。

 食事は先輩の入院者が部屋まで運んでくれる。ドアがノックされる。「どうぞ」と

いっても、なかなかドアを開けない人がいる。行ってしまったのだろうかと思う程

長い時もある。普通、神経症というのは外見ではなかなか分からないものだが、

この人の場合は一見してそれと分かるものだった。一体この人は何に苦しんで

いるのだろうか。

― 森田療法 ―

 一週間すると、ベッドを離れ、外の空気が吸えるようになる。森田全集では臥褥

が空けたとたんに治ったというのが何例もあるが、僥幸は起らなかった。一つの

難関は突破したが、「もしかして」の期待を裏切られた落胆の方が大きかった。

 一人ゆっくり院内を歩く。一週間見続けた白い壁と白い天井の残像の上に映る

院内の情景は、実に様々な変化に富んでいて、実際よりもはるかに広く見える。

自分の症状にとらわれ、その変化に一喜一憂し、自分の偏狭な小宇宙に幽閉さ

れた入院者の心を、外界に連れ出し、客観世界に誘導するための工夫が色々

凝らしてある。

 起伏や障害物を利用して院内一周のゴルフコースが設けてあったり、小さな

池があったりする。池の中では、樹々からもれる陽を浮べて金魚が泳いでいる。

多種多様な樹木が植えられ、特に桃、梅、あんず、木れん、ライラック、海棠と

いった花を楽しめる木が多い。

 樹々の間には「不安常住」というような文句を書いた木の札が立っている。日当

たりのいい場所には花壇があり、植木鉢が置いてある。木のないスペースには

卓球台があり、ピンポンの音が青い空にはずんでいる。庭と反対側の隅には焼

却炉があり、その奥には燃料用や木工用の廃材置場がある。どんずまりは風呂

のたき口である。

 私のいるこの病院は高良興生院といい、森田の弟子である高良武久という人

がここのボスである。森田療法は保険がきかず、一日六千円の入院費は、当

時としてはかなり高額で、治るまでというより金が尽きるまでという人もいた。

 私は別に金に困っていた訳ではないが入院は二ヵ月と決めていた。高良先生

は当時既に八十歳くらいで、治療には直接携わっておられなかった。森田のよ

うな独創性や強烈な個性はないが、なかなか冷静で知的な人である。

 森田療法というのは、森田正馬という人のパーソナリティーに負う所が大きく

(この点甲田療法と甲田先生の関係とよく似ている)生きた森田を通して最大の

治療効果が発現されると思われるのだが、それを森田から半ば切り離し、平々

凡々な医者でも治療できるような形に普遍化しなおしたという点においては、高

良先生の功績も大きなものがあると思う。そのことによって治療効果は薄まった

が間口はずっと広くなった。

 ただ私はその頃、森田に心酔していたので、森田以外の医者は十把ひとから

げで皆頼りなく見えた。それ故入院の心構えとしてまず自分に課したのは、生身

の医者の背後に森田の姿を見、森田がしゃべっていると思いこんできくという態

度だった。森田は多くの患者にとって、医者としてだけでなく、師として仰ぎ見ら

れる存在であった。

 興生院では医者と患者の間はそんな濃厚な関係ではなく、良くも悪くもサラリ

ーマン的であった。しかし生半可に知的で小生意気な私としては、森田先生と別

な人格の医者が森田の雛形として振るまわれるより、少々味は薄くても、サラリ

として都会的なこの病院のやり方の方が性に合っていた。

 私は医者の指示に従ったが、医者を頼ることはしなかった。自主的に自分を律

し、自分の判断で行動した。娑婆での私は、相当奔放でやんちゃであったが、院

内では院内の規範を尊重し、自己のペースに巻き込まれないようにした。森田理

論を実践するというのは、私という人間の大いなる改造でもあった。森田理論はか

なり精通していたので、先生方の講和をきいても、さほど刺激されることはなかっ

たが、謙虚に拝聴するよう心掛けた。心の矯正はまず態度の矯正だと思ったので

ある。事実その通り続けていれば、まがいものでもだんだんそれらしくなり、ある

種の内面の変化を引き起こすという体験をした。

― 様々な神経症 ―

 院内の一日は朝の掃除から始まる。その時既に起きている誰かが7時にチャイ

ムをたたく。不安で眠れない私はとっくの昔に起きてホウキをもっている。ベッドで

不安と格闘しているより、身体を動かしているほうが楽なのだ。「修行にホウキは

つきものだな」と一人苦笑していることもある。

 臥褥が空け四、五日もすると、院内の様子も大分解ってきて、色々な人と話す

ようになる。私の部屋に食事を運んでくれた例の人に思い切って尋ねてみた。

「Bさん、あなたは何処が悪いんですか」彼は、はにかみ気味の力のない笑みを

浮べ、「僕は刃物恐怖なんですよ」これは強迫神経症の一種で、他に不潔恐怖、

計算恐怖、確認恐怖など様々なものがある。彼の場合は、あちこちから刃物が出

ているように思え、そんなことはないと知っているのだが、それを確かめてからで

ないと行動に移せないのだ。食事の時も茶碗を見つめ、人が食べ終った頃、やっ

と食べ始めるといった具合である。

 Tさんは、見たところ何処がおかしいのか全く分からない。きいてみるが、「その

うち分かりますよ」といって周りの人と顔を見合わせて笑っている。さてその日の

夜のミーティング。順番に自己紹介し、彼の番になった。と、そこで突然流れが止

まる。「タッ、タッ、タッ」と自分の頭音をくり返すが、後が出てこない。つまりこの人

は自分の名前が言えなかったのである。

 心の悩みは、人各々色々あるが、神経症の「とらわれ」の内容をきくと、「何だそ

れぐらいのこと」と笑い出すようなことが多い。しかし神経症の場合、問題にしなく

てはならないのは、「とらわれ」の内容ではなく、「とらわれ」そのものなのだ。その

「とらわれ」を生んでいるのは、生き物なら誰でも持っている自己防御本能である。

 これは危険に遭遇した時、必要な装置なのだが、それが別に危険でもないもの

に対し、異常に過敏に働き、反芻をくり返すのが「とらわれ」なのだ。その点では、

免疫作用において、さして危険でもない抗原に対し過敏に反応するアレルギーと

そのメカニズムはよく似ている。正常なら、普段鞘に収められているその装置が、

「とらわれ」の対象に対して高いアンテナまで張り、剥き出しの状態のままおかれ

ているのである。

 さて当の私であるが、すべり出しはまあまあ順調であったのだが、起床十日目

ぐらいから、三日間非常に強い不安に見舞われた。余りに耐え難いので三日目

にとうとう看護婦に薬を出して欲しいと所望する。主治医が了解したと言って、彼

女が薬を持って来てくれた。まさにその時症状が少し軽くなって、結局そのまま

薬に手をつけずに済んだ。この時、もし薬に手を出していたら、回復はずっと遅れ

ただろう。

 後になって医者に「あれ程の苦痛に耐えるのは三日が限界だ」と言われた。ギリ

ギリまで我慢したおかげで、自然に不安が去ったのだろう。家で経験した劇症不安

の時は、失神して眠ってしまったが、人間の生理とはそういう風にできているもの

なのだ。

            

 次号に続く…                                 (2009 秋)
by kumanodeainosato | 2010-09-02 18:11 | 神経症体験