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よしおくんの日記帳

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私の神経症体験 3

― シーシュポスの神話と正受不受 ―

 この三日間の大波を乗り切って四日目、つまり臥褥が終って起床十七日目の

ことである。寝る前に考えた。「神経症は苦しい、辛い。死ぬほど辛い。毎日毎日

五十音を始めから終りまで何度も何度もくり返す如く、気づいたらまたも『あ』か

ら始めている。一体こんなことでいいのだろうか。こんなに苦しい思いをしても、

それはただ神経症の苦しみに耐えているだけで、克服に向っていない。この堂

々めぐり。ホトホト疲れた。

 ええい!どのみち苦しいのなら、耐えることより、もっと積極的に苦しみを求め

て、こちらからなぐりこみをかけてやろうと思った。窮鼠猫を噛むといった心境だ

ったのだろう。その時、文学青年の私の頭裡に浮んだのは、カミュの『シーシュ

ポスの神話』だった。「神々がシーシュポスに課した刑罰は、休みなく岩をころが

して、ある山の頂きまで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂まで達

すると、岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった。無益で希

望のない労働ほど怖ろしい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかは

もっともなことであった」

 私はその時、シーシュポスになろうと思ったのである。そう思った瞬間、何かが

ふっ切れて、薄光が射した。「あっ、これだ」。それは丁度泳ぎを覚える時、初め

て自分の体が水に浮いた感覚と似ていた。この時、神経症克服の最大の手が

かりを得たのである。明らかに敵のシッポが見えたのだ。私はこの誕生したばか

りの、ちょっとした刺激にもこわ毀れそうな感覚をしっかり覚えこんで心にしまい

こんだ。この感覚は以後の私の神経症克服への道明りとなるのである。この時

の不思議な解放感は、苦しみを排除しようという葛藤をやめて、曲りなりにもそ

れを受容したことによるものである。ここで排除に向っていたエネルギーが停止

し、幻映の悪魔を生み出せなくなったのだ。

 これを森田は「正受不受」と言っている。禅のコトバだそうだ。興生院の作業室

の壁にも貼られていた。詳しい意味は知らないが、読んで字の如く、「正しく受け

れば、受けずも同じ」ということだろう。例えば、速球投手のボールを下手に受け

れば手が痛くて受けられないが、うまく受けると何でもないといったような意味で

ある。

 今まで森田療法の世界をハイハイしていた私も、やっと伝い歩きが出来るよう

になったのである。神経症という魔球を今初めて森田療法というグローブで受け

とめたのかもしれない。この日を境にして、私の院内での行動がキビキビしたも

のとなり、日常が着実に蓄積されていくのが自覚できるようになった。その距離

は分からないが、目標地点が射程に入ったという健康な想念が私をひっぱって

いった。とはいっても心の中はいつもビクビクものだった。リハビリの回復期の人

が一歩一歩足元を確かめるように歩いているようなものだった。

 後にそのたどった軌跡を俯瞰してみると、ほぼ一直線に快方に向っているが、

現実の一瞬、一瞬においては、やはり様々な起伏があった。その一つ一つの小

さな体験の積み重ねを通して、不安は自らのはからいでコントロールしようとす

るよりも、それをあるがままにしておくと、やがて過ぎ去るものだということが、少

しずつ体得されるようになった。これもまた森田がよく引用する禅の文句である。

「心は萬境に従って転ず。転ずる処、実に能く幽なり。性を認得すれば、喜も無

く、亦憂も無き也。」

― 睡眠薬を断つ ―

 私にとって、次の関所は、睡眠薬を切ることであった。「薬に頼らないように」と

別に医者に命ぜられた訳ではないのだが、薬物の世話になることは自分の美

学に反するものであった。

 この薬を切るための闘いも、かなり熾烈なものであった。ただの不眠症では

なく不安で眠れない訳で、真夜中、周りの闇が一刻一刻の時の流れにのって、

不安の領域を広げていく。闇の中で、不安自体が息づいている気配をずっと感

じている。何度も起き上って、フトンの上に正座する。その瞬間、部屋の空気が

搖れて、不安の密度に濃淡ができる。意識は敏感にその間隙をみつけようとす

る。かなり緊張している。

 この時は入院以来積み上げてきたものを下手な刺激で瓦解させたくないとい

う保守的な気持が働いていた。神経症にとって逃げの保身は禁物であるが、こ

の時は生まれたての赤ん坊のように自分を大切に扱いたいと思っている。

 正座して、誰を想うこともなく、何を考えるでもないが、生きていることへの執

着の触手が薄い膜のように全身を包んでいるのを感じている。時計を見、枕元

の薬に目をやる。この時、不安に負け、保身に傾くと薬を手にとってしまう。その

誘惑をはね返し、再び横になる。不安を排除する気もなく、受け入れる気もない

が、時は過ぎ、いつの間にか朝になる。そんな日を一日一日、四日間つなげ、

五日目についに眠ることができたのである。

 朝、目醒めた時、「とうとうやった」と心で祝盃をあげた。何度も失敗をくり返し

この試みに挑戦して二十二日目のことだった。青蛙がついに柳の枝をつかまえ

たのである。この間、睡眠不足で倒れることも、身体を壊すこともなかった。いく

ら不安に見つめられてさえ、時満ち、身体が要求すれば、ついに眠りは手に入

るのだという経験をして、私のコレクションがまた一つ増えた。

― 陽気なZさん ―

 院内には、様々な神経症の人が居た。大きく分けて、私の様な不安神経症、

人に会うことや人の中に出ることに不安を感じ、人を避けようとする対人恐怖症、

それに刃物恐怖や不潔恐怖などの強迫神経症など、その他にも神経性の抑う

つ病、本物のうつ病そしてそううつ病の人もいた。こういう人達と一種の下宿の

ような形で朝から晩まで一緒に暮しているので、後から考えると色々な人間観

察が出来て、貴重な体験ができたと思っている。

 Zさんは、外向的で愉快な人だった。知り合って一週間も経たないうちに、彼

から同じ話を三度もきいた。「電車に乗れたんですよ」誰彼なく捕まえて話して

いる。この人は不安神経症の精神症恐怖である。ある時、新聞か雑誌で〝精

神病〟という文字を見たとたん、髪の毛が逆立つ程の恐怖を覚え、それ以後神

経症になったということだ。外で発作に襲われることを危惧するあまり、気軽に

外出できない。特に電車が苦手である。

 彼は臥褥中、「入院したんだ。さあこれで治るぞ」という安心感から、よく眠り、

食欲が増し、病院の食事だけでは足りず、看護婦に頼んで、何度もカンヅメや

果物を買いに行ってもらったそうだ。世間一般の目で見れば、「そりゃあ、元気

で何よりだ」ということになるが、これではまるで臥褥をする意味がない。森田

理論では、ごまかしのきかない環境で、病と向き合い、内省を深め、できるだけ

苦しみなさいということになっている。

 前回にも書いた通り、私にとってこの病院の治療法はあまりこうるさく言われ

ず、人間として対等に扱ってもらえ、自分の自主性が大いに発揮できる機会が

常にあり、実り多きものであった。しかし森田理論をあまり学習していない彼の

ような極楽トンボタイプには、まさに森田のような臨機応変で生活密着型、多弁

文学タイプの指導者が必要だろうと思われた。

 森田の指導は、通信治療や外来治療もあるが、入院者と生活を共にし、森田

自身患者の前に身を晒し、全人教育的な所があった。一方、ここでのやり方は

都会的でスマート、悪く言えばサラリーマン的であった。森田理論のエキスをし

っかり格子にもち、森田の教祖的、説教的な人間くさい部分を濾過するというや

り方である。森田のスートリー性を除去し、プロット(筋)だけ残すというものであ

る。

 これはある意味賢明で、森田のやり方をそのまま他人が真似ると、何とも様に

ならないいやらしさを露呈するであろうことは想像に難くない。森田のコトバは森

田のパーソナリティーと不即不離の関係にあり、森田の身体に肉化されたコトバ

である。それが森田自身の口から発せられるので説得力をもったが、他の医者

が同じことを言っても、コトバそのものが羞恥して、患者の所に届く前に、何処か

へ身を隠すにちがいない。

 興生院での治療は森田のそれのように、治療者を尊敬するとか、深い人間的

影響を受けるとかいうことにならなかった。そういう乾いた治療法は、治療効果と

いう点では森田に一歩も二歩も譲るだろうが、治療が治療者の人格に偏しない

という点では、ある普遍性を備えているともいえる。それがこの病院の創始者で

あり統括者である高良氏のすぐれた所でもあるし、物足りない所でもある。

 院内では日常、医者と接する機会はあまりないが、患者同士は一緒に過ごす

時間が多いせいもあって、もっと濃密なつき合いをする。だから自分がよくなると

いうことは、森田療法の生きた見本として、医者の言うことより説得力をもつこと

がしばしばある。そういう意味で、Zさんは私のアドバイスをよくきいてくれ、また

症状に関する相談を度々受けた。

彼の関心事は、いかにすれば不安が軽減するか、また解消するかに集中して

いた。症状そのものに感心を向けているうちは、けっしてよくならないのだが、い

くら説明しても百遍も二百遍もくり返し同じことをきくのであった。私のアドバイス

は、「症状をそのままにして、目的本位の行動をとること、おかれた場での日常

生活を大切にすること」というのであった。「Zさん、あなたは水に濡れないで、泳

ぎを覚えようとしているが、そんなうまい方法がありますか」とも言った。

― Dさんとあきらめる ―

 もう一人印象に残る人がいた。心臓神経症のDさんである。この人は入院が今

回初めてではなく、仕事の空いた時間に何度も入院していた。心臓神経症は、

今はパニック障害などと呼ばれる。比較的多い病気で、やはり不安神経症の一

種である。

 ある時、外出先で心悸亢進発作を起し、それを予期恐怖するようになり、殆ど

といっていい程外出できない。そんな事情で塾の教師をしている。私も当時塾の

教師をし、出身大学も同じ、年格好も同じ、若白髪も同じで、何だか似ているな

と周りの人に言われた。

 彼はある時、こんなことを言った。「俺が女房と子供にしてやれることは、あい

つらの前でせめてニッコリ微笑んでやることだ」それをきいた人が「Dさんは悟っ

ているネ」と言ったが、私は「何て情けないことを言う人だ」と思った。その様に

「あきらめ」てしまう程、長くて辛い闘病生活だったのだろう。

 しかしそれは森田療法的ではない。正岡子規の如く死に見入られ、動けなくな

っても枕を杖にして、生を謳歌するというのが、森田の世界なのだ。彼は森田理

論を十分理解する能力がありながら、全く学習しようとしなかった。「理屈では治

らぬ」が口癖で、その傘の下から出ようとしなかったが、せめて「理屈だけでは

治らぬ」の域まで進んでもらいたかった。

 「あきらめる」にしても、森田療法のそれはもっと積極的なものである。「あきら

める」は文語の「あきらむ」からきている。つまり物事を明らかにして、はっきり見

定めることである。「明く」の前提として「開く」がある。物事をつきつめて考えてい

くと想念が満ちてゆく。そしてあるいは融合し、あるいはぶつかり、その運動のも

つエネルギーが、ある閾値を超えた時、ついに閉ざされた空間が外に向って開く。

そこから射しこむ光で、想念の正体が照らし出され、その実相が浮びあがる。そ

れが深層の意味における「あきらめる」である。

 私は学生時代、少しばかり中国語をかじったが、中国語でも「あきらめる」は

「想開」という。「あきらめる」にしろ「想開」にしろ、考えられているよりもっと能動

的な為で、自分のおかれた状態、情況をよく認識し、できることと、できないこと

を、ぎりぎりで見定めるということであり、一種の「覚悟」を伴うのである。彼が奥

さんや子供の前で絶やすまいとする弱々しい微笑みの底には、「あきらめる」こ

との誤解がある。

 本当の「あきらめ」とは、〝症状は過去の総体として、自分が作り出したものだ

から受け入れよう(つまり仕方ないからあきらめよう)。しかし一人前の人間として、

女房や子供のためにも、外出せずに暮すことはできないのだから、発作が起っ

ても起らなくてもやるべきことはやろう。〟ということなのだ。真の意味の「あきら

め」を「逃げ」にすりかえる。そのような行動パターンの中からは、いくら入退院を

くり返しても、克服の糸口は見えてこない。森田療法では、この真の意味の「あき

らめ」を「あるがまま」といっているようである。その頃、私はこのことを実践として

解りつつあったので、Dさんをはがゆい思いで見ていた。普通退院する時は、医

者を含め、みんなが門の所で歌を唱って送り出すのだが、彼は二、三の親しい

人にこっそり告げただけで、夜陰にまぎれて退院していった。

入院者の中で、一番多いのは対人恐怖症だった。これはムラ社会を文化的な基

盤にもつ日本の特異的な現象だと言われる。ムラ社会では限られた一定の場所

で、毎日死ぬまで同じ人達と顔を合わせ、生活を共にするという気苦労の多い人

間関係が存在する。ムラ社会では「出る杭は打たれる」という如く、個よりもまず

全体の協調性が重要視され、人にどう思われているか、人にどう見られるかとい

う相手の視線を意識しなければ生きられないのである。もしそれを無視すると手

痛いシッペ返しを食う。

 都会に出て勤め人になっても、その本質は変らない。会社、役所、学校もムラ

社会そのものだと言える。国会議事堂の中もそうである。市民運動の中でさえ似

たようなことが言える。これは文化の問題だからいいとか悪いとかの問題ではな

いが、そういう文化的風土の中で培われるのが対人恐怖症である。もっとも昨今

は対人恐怖症より、うつ病の人が増えているようだが、これはひょっとして日本型

ムラ社会が崩壊して、一人一人が他人の大海に投げ出されたからかもしれない

が、このことについては別の機会に考えてみたい。

 対人恐怖症の人は人前に出るのを嫌がる。入院者の中でもひどい人は、部屋

ら出るのさえ厭う。電車に乗れば、必ずドアの所に立って、他人と視線が合わな

いように外を見る。自分の一挙一動に視線の刃を感じている。しかし彼は本当の

人嫌いではない。それどころか人と交わりたい、人によく思われたい、人に愛され

たいと思っている。思いながらできないので煩悶するのである。「人を見る時、目

つきが変になる。」とか「顔がゆがんでしまう」とか「みんなが自分を見ているよう

な気がする」とか「人からつまらない人間と思われているのではなかろうか」とい

ったことを気にする。それを気にし、うまくやろうとすれば、益々ぎごちなくなるの

である。しかし他人は本人が思っている程、彼を注目している訳ではない。これも

やはり一人相撲なのだ。

 かつて対人恐怖症の人が「自分はひどい時には、鯉の顔も正視できなかった」

といった。その時森田は「何故正視できないか、分かるか」と尋ねる。しばらく答え

られないでいると、「それは鯉を見た時、鯉を見ないで、人に対した時の、自分の

気持ばかりを見つめるからだ」と、森田は教えるのである。自分の心ばかり覗い

ているというのは、不安神経症も強迫神経症も対人恐怖症も皆同じなのだが、病

気で苦しんでいる時は、互いが互いの悩みをよく理解できないで、「この人は何で

そんなことぐらいで苦しんでいるんだろう」といぶかしがり、皆、自分が一等苦しい

と思っているのである。私の観察した所では、不安神経症の人は割合陽気で外向

的、可愛がられ、甘やかされて育った人に多く、対人恐怖症の人は、内向的で、

比較的厳しくしつけられて育った人に多い。そしてもう一つのグループはうつ病だ

が、長くなりそうなので、これは割愛する。

― トウモロコシとぼたん ―

 さて本人のことに戻るが、私が退院を決意したのは、起床三十二日目である。

入院は森田正馬全集の入院患者の日記を見て、全快して退院するものだと思っ

ていたのだが、ここで暮すうちに、やはり娑婆の日常実践を通し、もっと長い年月

をかけて克服するものだということが解ってきた。それ故、不安ではあったが、思

い切って外に出ようと思ったのだ。塾の生徒には二ヵ月したら帰ると言ってきたの

で、丁度二ヵ月目に退院することに決めその九日後に医者に告げた。見切り発車

して途中で撤回するようなことがあるときまりが悪いので、しばらく自分の様子を

観察していたのだ。

 医者の返事は勿論OKだった。その頃、私は病院内ではかなりの優等生で娯

楽室で教養講座や、自分の部屋で神経症克服講座を開いたりしていた。また院

内にうるおいをと木札に俳句を墨で書いて、木にぶらさげたりもした。例えば

  行き過ぎて尚連ぎようの花明かり

  妻と子の何興ずるや花あんず

  さりげなくリラの花とり髪に挿し

といった具合である。残念ながら私の句は見劣りして発表できない。退院までに

体験記を書くように、医者から勧められたが、いざ書き始めると不安が強く中断。

結局、体験記を冷静に書けるようになったのは、退院後一年経ってからである。

 この様に入院生活の後半は、不安を抱えながらも、極めて充実した生活を送っ

ていたのであるが、退院の日を告げた前日に、私が百姓するきっかけになった

極めて重大な出来事が起っている。

 入院者が連れ立って、深大寺にツツジを見に行った。全員心に病をかかえてい

るので花見に行ったって面白いはずがない。しかし、たまには浮世の春につき合

おうと、酒ももたず、足取りけっして軽やかならず目的地に向う。こんなみじめな

花見をしている人はいないだろうなと思いながら、この無味乾燥さを楽しんでやれ

と思っているもう一人の自分も確かにいる。

 帰路、新宿の駅の構内の花屋さんで、素晴らしいぼたんの花を見る。私はこの

優美で泰然とした花に強くひかれ、しばらくながめていた。その時ふと花ばかりの

病院の庭に野菜を植えてみたくなり、一袋百円也のトウモロコシの種を買う。


  次号に続く…                                (2009 冬)
by kumanodeainosato | 2010-09-02 18:14 | 神経症体験