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よしおくんの日記帳

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神経症体験4

―農と交わる―

日常は日々実りを生んで過ぎていったが、全く不安がなくなった訳ではなかった。

昼間はその濃密な時間の中に不安のつけ入るスキはなかなかなかったが、夜

は無防備だった。時々、夜中に目が醒めて、不安でそのまま眠れないことがあっ

た。以前なら家族の気持よさそうな寝息に、「何故オレだけこんな目に遭うんだろ

う」とわが不幸を呪った。

しかし今は冷静に自分の現在を受け入れ、起きて読書をするか、ペンを執った。

深夜の静寂を友とする余裕があった。目が冴えればそのまま作業を続けたし、不

安が去って眠くなると、また寝床へ戻った。


もっと不安が強く机に座れないときは、外に出て月の下を歩いた。自然と足は畑に

向った。月の光で見る深夜の畑はまた格別の風情があった。

畝間をゆっくり歩きながら、野菜たちの寝姿を見て回った。その安らかな表情を見

ながら、こんな時間にここにいることの一人遊びを楽しんだ。一句できそうな気がし

た。

不安はいつの間にか去っていた。よからぬ訪問者は相手せぬことである。ほおって

おくと、いつの間にかいなくなる。不安というよからぬ訪問者に対して神経症の人は

座敷に上げてお茶まで出す。


農作業は実に楽しかった。子供がドロンコ遊びに熱中するように、土いじりに時間を

忘れた。汗と共に体中の毒素が洗い流され、精神だけでなく、肉体も生まれ変わっ

ていくようだった。一日中身体を動かしているので、飯も酒も旨かった。人間は動物

なんだと改めて思った。

農作業は読書などとちがって、扱う相手が形と命ある具体物であり、その変化も具

体的で、目で捉え、手で触ることが出来る。種を播けば芽を出し、肥料をやれば生

長する。観念のやりくりばかりしてきた人間にとって、農作業の徹底した物理性と作

物の具体性は新鮮であり、魅力的であった。


草が生えれば草を苅り、日照りが続けば水をやる。その単純な作業の中に、今まで

忘れていた生命の明快な論理があるような気がした。

そういう世界に素直に触れてみようとした。危げに積み上げられた観念の城から出

て、明るい陽の下で、生命の原初を呼吸したいと思った。様々なはからいによって、

自分を自分から遠ざけていた衣を脱ぎ棄て、淡々生きる素朴な生命から学ぼうと

した。


そのような農との蜜月期間を通じて「死」に対するスタンスも大分変わってきた。自

分の存在が永遠に消滅する「死の恐怖」は相も変わらなかったが、それを何とかし

ようとは思わなくなっていた。

森田が教えたように「怖いものは怖いままでいい。それが生をよりよく生きようとす

る人間の姿だ。」ということの意味をかみしめていた。”こわいものはこわい”という

諦めを受け入れたのである。


ここで少し断っておくが、現在の私には死の恐怖はない。死を想い、発作を起させ

ようとしても反応しない。それは、今は生命の永遠性を知っているからであり、人間

の正体を知っているからだが、そのことについては後で詳しく述べる。

とにかくこの時は、神経症はともかく、死の恐怖の問題が解決された訳ではなかっ

た。


しかし考えが180度変わった。それまでは、自分の死の恐怖が解決されないなら、

どんなにいい社会になっても自分は救われないと思っていたのであるが、そうで

はなく、解決の見込みのないものにふり回されるより、もっと甲斐のあるものにエ

ネルギーを使おうと思ったのである。その取り組むべき対象がグットタイミングで目

の前に立ち現れた。

それが我が生涯の友であり天職となる農業であった。農業を通して社会に積極的

に関わろうとした。


つづく
by kumanodeainosato | 2011-02-01 08:36 | 神経症体験