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よしおくんの日記帳

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神経症体験4

―専業農家になろう―

そしてまたたく間に半年が過ぎた。昼間は農業し、夜は塾の教師を続けていた

が、それはもうかつて経験したことがない程、心晴れやかな日常であった。

しかしあくまでリハビリ期間のモラトリアムの幸せで、もうそろそろ本気に身の

振り方を考えねばならないぞと思っていた。


その年の晩秋の夜、「今日こそは決心せねば」と、独人になり、机の前に座った。

選択肢は色々あった。もう一度大学に戻って学問の道に進むのか。神経症を克

服した経験を生かして精神科医になるのか。保育所等を通して幼児教育に取り

組むのか。今のように、塾で稼ぎ、百姓で遊ぶのか。それとも本物の百姓にな

るのか。

心は千々に乱れ、ここで決断しなければ、又、おかしくなりかねないと思った。


この時、最後まで迷ったのは、医者になって人を救うか、好きな百姓をするのか

ということであったが、人の為より自分の好きなことを選ぼうと思った。それより

私を悩ませたのは、百姓をどういう形でするか、つまり専業農家になるのか、他

に仕事を持ちながら百姓をするのかということである。

私は自分の才能をある程度信じていたので、百姓だけさせるのは惜しい男だと

思った。そこで葛藤となればきりがない。この時、一つのことを選択するというの

は、ほかのことを棄てる、真の意味で諦めることだとはっきり知った。


私は潔かった。「オレは鍬一本で生きよう。土を耕し、家族を養うぞ。本もペンも

学歴も全部棄てた!農民になるぞぉ」と思った。その瞬間、もの凄い快感に包

まれた。後にも先にもこんな経験はそのとき一度きり。それはこの世のもので

はないというか、日常レベルの気持ちよさとは全くちがう五感を超えたものであ

る。今から思うと、あれは心ではなく、魂が喜んだのだ。魂と共鳴し、魂の弦が

鳴ったのだと思う。私の書斎が異次元空間のように感じられた。

あまりの快感に「この天にものぼる気持ちよさは何だ」と思ったが、自分の重さ

がなくなっていることに気づいた。身体がたたみを離れていたかどうか知らない

が、接触感は全くなかった。人に笑われるが、「オシャカ様の弟分になってしまっ

た」と錯覚したぐらいである。


この時私は確かに真理の一端に触れた。日常のぶ厚い壁に亀裂が入って、そ

の狭い隙間から射した黄金の光。その光を私はしっかり経験した。「棄てた、放

した」とたんに自由になった。それは所有する(いらないものは特にそうである

が)というのは、かえって人間を不自由にするということを教えている。

所有というのは囲いを作ることなので、不自由な人間にとっては、その中で偽

似的自由を与えられるが、本当の自由を求める人間には不自由なのである。


真の意味で自由になると、重力の作用を受けなくなる、というより感じなくなる。

「重力感覚というのは、業や執着心に反応しているのだ」ということを、その時

知った。(動物が概ね身軽なのはそういうことと関係しているのかもしれない)

しかしむしろ私はその感覚に深入りしないようにして、硬質で具体的な世界を

相手にしようとした。神秘的な体験をしながら唯物論者になろうとしたのである。


次号に続く...
by kumanodeainosato | 2011-02-05 07:16 | 神経症体験