この間、久し振りに故郷の藤井寺小学校の同窓会に出た。そこでAさんという女性の横に座った。
この人はオカッパ頭(その頃の女の子は皆そうだったが)が印象的で、よく勉強ができた。
家は当時の役場と幹線道路をはさんで向い側にあり、まんじゅう屋を営んでいた。
この子のお父さんが、若くして亡くなったのである。私達はまだ三年生か四年生だった。柩をかつ
いだ白装束の列が町の大通りをしめやかに行く、幼いその子もその中に居た。道の脇に立って私はそ
れを見ていた。
この同級生が可哀そうで可哀そうでならなかった。もし自分がその立場だったらと思うと、空恐ろ
しくなり、考えただけで体がこわばった。
私は父とはあまり馬が合わず、いい親子関係というのでもなかったが、それでも父を失うことの深
い悲しみに耐える自信がなかった。
私はこのAさんに、その時の話をした。そしたら「あんたよう覚えてるねえ、私は全然覚えてない
わ」という答がかえってきた。「他人の私でさえあんなに強烈な印象をもって思い出されるのだか
ら、まして本人は」と思っていたのだが事実はそうでなかった。私がその時の自分の気持や情景を鮮
明に覚えているのは、当事者じゃなかったからなんだということに気づいた。
当時者はその事件になり切っていて、その悲しみと一体化し、私が感じたような感傷の入りこむ余
地がないのだ。
何も覚えていないというのは人間の知恵で、あまりに悲しすぎ、あまりに大変すぎる情況におかれ
るとそれ以上、悲しみや大変さを拡散させないように忘却という記憶の中に閉じこめてしまうのだ。
今度はBさんとの会話である。この人も女性である。私は実家は敗戦後の混乱期、百姓ばかりでな
く、儲かるものなら何でもといっていいくらい様々な商売をしていた。風呂屋もその一つである。祖
父母がこの風呂屋を経営していた。Bさんは幼い頃この風呂の客で、番台に座っていた祖父の顔をよ
く覚えている。その彼女が私を見て、「ようちゃん、おじいさんにそっくりになってきたなあ」とい
う。「ええっ」と思ったが、言われてみると、こちらはその頃の祖父の歳である。
そのことで思い出したことがある。やっぱり小学生の頃の話である。近所の床屋に行くと、祖父の
小学校の同級生だったというバアさんが居て、私にえらく慣れ慣れしく話しかけてくる。その人は子
供の頃、祖父のことが好きで、嫁になろうと思っていたそうである。「あんたくいっちゃんの子供の時
によう似てるなあ。かしこそうな顔してるわ」と近寄ってまじまじと見つめられた。
六十年をはさんで祖父と私が入れ変っている。