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よしおくんの日記帳

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神経症体験5

―植物を見て人間を想う―

 起きて百姓、寝て百姓、百姓に明け暮れ五年経った。この間、毎日家と畑の往

復。土ばかり見て暮してきた。


 しかし人間とあまりつき合う暇がなくても、植物と接していると、人間と似た所も

あって一向に退屈しなかった。例えばこんなことがある。


たいていの植物は直かに播くよりも、苗を育てて移植する。昔は移植ポット等とい

うものがないので、移植する時、根が切れる。すると一時は水を上げられないか

らダラッと肩を落して、見るも無惨な姿になる。しかし数日すると切れた所から新

しい根が出てくる。


それは綺麗な真白い根で、はじめ辺りの様子を窺うように、おそるおそるという感

じだが、やがてその細い根は、古い根をはるかに凌駕する量になり、今までより

更に旺盛な生命活動をするようになる。なるほど生命とはそういうものかと思う。

傷つけば自らその傷を癒すだけでなく、傷を癒すこと自体が、内に秘められた生

命活動の引き金になる。自分の神経症体験と重ね合わせて、生命の逞しさに改

めて脱帽する。


 また子育てと似ていると思うのは、ほったらかすのもよくないが、甘やかし過ぎる

のもよくないということである。水をやる癖をつけると、植物は怠けて、水を求め地

中深く根を張ることをしないので、環境の変化に弱くなる。それどころかちっ息して

根ぐされを起してしまう。また肥料をやり過ぎて肥料濃度が濃すぎると、根の周囲

の浸透圧の方が高すぎて肥焼けを起こすし、分解時のガスで根を痛める。


 うまく吸収されても、過多はやっぱり問題で、チッソ肥料は特に危い。図体ばかり

大きく軟弱になり、病気や虫に犯され易くなるし、特に問題なのは生殖がうまく出来

なくなることである。成長と生殖のバランスが崩れ、生殖に行くべきエネルギーが

成長にいってしまうのである。もしこれがナス、キュウリ、トマト等の生殖の結果収

穫する果菜類に起れば万事休す。所謂ツルボケという現象である。


 これを人間に当てはめれば、チッソ肥料というのは、タンパク質(チッソが含まれ

る)に当る。ある統計で収入が多く、タンパク質摂取量の多い地域のお母さんの母

乳の出が悪いという結果が出たそうである。このことを知って、私は人間も植物も

同じだと思った。


 母乳と言うのは生殖に関するものだが、ごちそうの食べ過ぎ(タンパク質の多量

摂取)によって、それが阻害されるというのは一体どういうことなのだろう。


 それは肉体に満足を与え続けていると、肉体は我が世を謳歌し自己完結的にな

るということなのだ。精神活動もふくめ、生物体の生命活動の根冠にあるのは飢

餓である。飢餓感がバネになって足を前に出す。生命活動を継げていくための生

殖活動を発動せしめるのも飢餓感で、それを身体の危機的状況と察知して、自分

を別な固体に残そうとするのが生殖なのである。


 こう考えていくと、貧乏人の子沢山は社会学的にだけでなく、生理学的にも理に

叶ったものである。母乳の出だけでなく、粗食にすると受胎率も高くなると言うのが

私の考えだ。日本も最近少しは貧しくなったものの、まだまだ大多数の人が、ごち

そうを腹いっぱい食べている。この日増しに虚弱化する日本人を立ち直らせる妙

薬は、案外食糧危機であるかもしれない。


つづく
# by kumanodeainosato | 2011-02-17 10:02 | 神経症体験

神経症体験5

―自然のリズムで暮す大切さ―

 農業で一番大変なのは朝の収穫で、これだけはいくら努力しても一人ではどう

しようもなく、乳飲み子をかかえた妻に助けてもらわねばならなかった。よく「収穫

の喜び」と言われるが、私は収穫さえなければ農業はどんなに気楽だろうと思っ

ていた。


 私の感覚では農業は仕事というより遊びに近かった。収穫とは種まきから実り

まで、さんざん遊んだ後のいわば燃えカスのようなもので、収穫とその後の販売

が、私にとって仕事となっていた。


 しかしそうはいうものの収穫は、作物の一生が凝縮された、緊迫を生む、神聖な

とき刻でもある。早朝の空気はその儀式にふさわしい。

一日のはじまりの大気には、何か不思議な力がある。頬に当るとはっきりと目が

醒め、身体の底から活力がムクムク湧き上がる。「オレはまぎれもなく生きている」

という実感が全身にみなぎり、生命というものはいいものだと無条件に思えてくる。

生きていることを全肯定する宇宙のメッセージが、朝の空気には満ち満ちている。

この早朝の時間に立ち会える職に就いた幸せは、いくら反芻しても飽きることがな

い。


 ついでに言うと、作物を作る場合、午前中の光線が特に大切だと言われる。私の

経験でも夕陽より朝陽の方が影響が大きいように思う。戦争に行った人にきくと、戦

闘で受けた傷を治すのに朝陽に当てたという。


 それは朝と夕の大気の状態や温度のちがい、それに受け手の生物の体内環境の

ちがいが複雑にからみ合って、そういう現象を起すのだろうが、「始まり」の中に、活

力の元がより多くあると見るのが、自然の摂理にかなっているだろう。毎日の繰り返

しの中で、その早朝の気を自然から得るというのは、人間という生き物に対して、身

体的だけではなく、精神的にも健康な影響を及ぼすと考えても不思議ではない。


 しかし現代人は自然と切り離された林立するコンクリートの中で、昼夜の別なく働

いたり、活動したりという生活を強いられている。

そのような生活空間あるいは生活時間におかれた頭脳によって生み出される想念や

価値観、思想、哲学というものは、生き物としての人間にとって果して健全なものか、

はなはだ疑問に思っている。自然と伴走する百姓生活の中で生み出される野良の文

化といったものが、都会や近代に対する対抗文化として必要ではなかろうか。


つづく
# by kumanodeainosato | 2011-02-10 14:26 | 神経症体験

神経症体験5

―晴耕雨耕―

 それまで同じ地域(大阪の藤井寺)の住宅に住んでいたのだが、父が亡くなっ

て三年、長男である私は家族を連れて実家に戻ることになった。実家は人通り

の多い場所にあったので、それを機に生産物は全て家の前で、朝穫り野菜とし

て売ることにした。


 塾の方は、新たな募集はしていなかったが、まだ生徒は残っていた。農作業

が忙しい時など、塾が終ってからヘッドランプをつけて畑に行くこともあった。そ

の頃休みなしで連日十五、六時間は働いていただろうが、まるで疲れというもの

はなかった。

友人に「晴耕雨読で結構な生活だな」と言われることがあったが、「いやオレの

場合は晴耕雨耕だな」と言って笑った。
 

私は「土と共にあること」「土を耕す」ことを貴いこと、誇りあることと思っていた。

努力しがいのあることをしているのだという意識は、どんな過酷な労働からも人

を解放するものである。むき出しの炎天下の暑さが、かえって快感だったし、雨

に濡れても、その冷たさが喜びだった。


私の世代は食糧難の頃の百姓の頑張りを多少とも垣間見ているので、それに

比べれば私の働きぶりなど児戯に等しいと思っていた。その人達と、この労働

を通していくばく幾許かつながっているということが嬉しかった。

現代では「勤勉」はあまり評価されないが、彼等の勤勉が敗戦後の日本の復興

の最も土台を支えたのである。それどころか高速道路も新幹線も、出稼ぎ百姓

の勤勉がなかったら、スムーズに出来上がることはなかっただろう。あれ等の

近代建造物の見えないひだ襞の一つ一つに日本中の百姓の勤勉がたたみ込

まれている。当時、私の百姓にかける情熱は異常とも言えるぐらいで、まさに頭

のてっぺんから足先まで、百姓三昧そのものであった。


それでも最初のうちは近所の百姓によくからかわれた。「お前みたいな学校出

の学士様に百姓が務まるくらいなら、逆立ちして町内一周したろやないけ」しか

し何年かすると、「お前、何でも上手に作るなあ」と言って、私の所へききに来る

ようになった。


私は育苗ハウスを持っていた。冬場は農作業が比較的暇なこともあって、毎日

誰か暖を求めてやって来た。ハウスの中には七輪があり、湯がシュンシュン音

をたてていた。客とお茶をすすりながらとりとめもない話をした。

私は地元の生まれなので、年寄り達と河内弁で話した。コトバというのは不思

議なもので、同じ方言を使うと、それだけでもう多くのものを共有してしまう。そ

のコトバには、私の少年時代の出来事や風景が沢山つめこまれていた。


年寄り達が生きた時代を河内弁を媒体として想像するのは、私の楽しみの一つ

になっていた。ハウスの中だけに限らず、焚き火をしながら、畦に腰を下してタ

バコをふかしながらのこともあった。そんなことを通して、私もだんだん仲間とし

て認めてもらえるようになっていった。


しかし一番の評価の基準になったのは、何といっても畑の出来映えであったし、

それを自分の思った値で売って、一人前の収入を得ているという事実であった。

当たり前かもしれないが「お前の考えは素晴しい」と言って誉めてくれる人は誰

もいなかった。いや一人だけいた。その人は近在では「百姓の神様」と言われ

ている人で、自分と共通のものを感じ、私の心意気を大いに評価してくれた。


 しかし農民自身でさえ並べて「農」に対する評価は低く、学歴と言う切り札があ

りながら、金や地位にあまり縁のない仕事を選ぶ人間は、世間の人から見れば、

所詮「変わり者」か「馬鹿」かであった。


 例えばこんなエピソードがある。ある日、鍬を使っていると、はるか向こうから

女の子の手を引いたお母さんがやってくる。風はそちらの方から吹いて声がよく

きこえる。「ほれ、あのおっちゃん見てみい。お前、勉強せなんだらあないになる

でえ。」知らぬが仏のこのお母さんに抗議するのも大人気なく、私は下を向いて

只笑っていた。


つづく
# by kumanodeainosato | 2011-02-09 10:05 | 神経症体験

神経症体験5

―初めての市場出荷―

 生産物は最初の頃は、妻が自転車の後に積んで、近所の住宅を回り、売り歩

いてくれた。しかし収穫物が多くなって、とてもそれでは追いつかなくなり、市場

出荷を考えなくてはならなくなってきた。


 忘れもしない初めて出荷した時のことである。キュウリを四つのクラスに分けた

のだが、出荷するには、上物ばかりの方がいいと思い、小売用に一番下のクラス

を残し、上の方を秀、優、良と分けて出荷した。初めてプロの仲間入りをしたという

意識で、次の日、仕切りのお金をもらう時、胸がふくらんだが、その額を見てペチャ

ンコになった。

今でもはっきり覚えているが、秀が十二円、優が八円、良が一円だった。その上、

手数料プラスαで、そこからまだ一割引かれる。因みに四番目のランクのは、一

本十五円の小売りで全て売り切れたのである。


 それからも懲りずにトマト、キャベツ、水菜、レタス等を出荷したが、やればやる

程馬鹿馬鹿しくなって、これはもう自分で小売するより他はないという結論に達した。


 市場という所は荷を確保するため、大型産地のものや、常連農家の品物にはそ

こそこの値をつけるが、たまにしか持っていかない農家のものはいくら新鮮な地場

野菜であっても買いたたかれる運命にある。


 その一方で、市場はとにかくいい品(見映え)を持ってこいという。市場の手数料は

八・五パーセントと決まっているので、商品価値の高いものを扱わねば儲からない

のだ。その結果、農家は生産量を上げるより、秀品率を高めることにより労力をさく。

そのために使わなくてもいい農薬を使ったり、大きさを無理に揃えたり、余計なシー

ルを張ったり包装したり、どうでもいいことにびっくりする程の手間をかけるのである。


つづく
# by kumanodeainosato | 2011-02-07 15:12 | 神経症体験

神経症体験5

―車の免許をとる―

 百姓を本業でやろうと思った時、最初の難関は車だった。趣味でやっている間

は昔の運搬車(自転車の一種で骨格ががっちりしていてタイヤが少し太く、荷台

が広い)を見つけてきて、それでまに合わせていたが、本業となるとそれでは無

理だった。リヤカーも時々使っていたが、車道では危なくて使えなかった。


かつて学生時代、将来の田舎暮ら暮しを想定して教習所に通っていたことがある

が、持ち前の気の短さで、教員とケンカして途中で止めてしまった。その二の舞は

許されない。兎に角、トラブルを起こさないように気をつけた。実習の時は必ず自

分の方から挨拶し、天候の話やら、なるべく俗耳に入り易い話題を見つけて話しか

けた。そういう類いのことは最も苦手で、まるでほうかん幇間にでもなったような気

持だったが、神経症で鍛えられたお陰で、その役も楽しむことができた。


 私は不器用だし機械類に弱いので、怒鳴られる前に、頭が悪いことを強調して

予防線を張った。敵はその作戦に引っかかって、たいていは平穏にいったが、時

にはカンシャク持ちが居て、大声で罵倒されることがあった。そんな時、そのいい

方に注意がいくと腹が立つが、何がいいたいのかその内容に耳を傾けると腹立ち

は視界から遠ざかり、相手の言わんとすることに納得することがあった。「正受不

受」(正しく受ければ、受けずも同じ)を日常生活に応用した訳である。


 車はさすがに自転車やリヤカーに比べ稼動力が大きく、今までより広い範囲を廻

れるようになって、他人の土地まで借りて耕すようになった。


つづく
# by kumanodeainosato | 2011-02-06 08:41 | 神経症体験