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よしおくんの日記帳

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私の神経症体験 3

― シーシュポスの神話と正受不受 ―

 この三日間の大波を乗り切って四日目、つまり臥褥が終って起床十七日目の

ことである。寝る前に考えた。「神経症は苦しい、辛い。死ぬほど辛い。毎日毎日

五十音を始めから終りまで何度も何度もくり返す如く、気づいたらまたも『あ』か

ら始めている。一体こんなことでいいのだろうか。こんなに苦しい思いをしても、

それはただ神経症の苦しみに耐えているだけで、克服に向っていない。この堂

々めぐり。ホトホト疲れた。

 ええい!どのみち苦しいのなら、耐えることより、もっと積極的に苦しみを求め

て、こちらからなぐりこみをかけてやろうと思った。窮鼠猫を噛むといった心境だ

ったのだろう。その時、文学青年の私の頭裡に浮んだのは、カミュの『シーシュ

ポスの神話』だった。「神々がシーシュポスに課した刑罰は、休みなく岩をころが

して、ある山の頂きまで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂まで達

すると、岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった。無益で希

望のない労働ほど怖ろしい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかは

もっともなことであった」

 私はその時、シーシュポスになろうと思ったのである。そう思った瞬間、何かが

ふっ切れて、薄光が射した。「あっ、これだ」。それは丁度泳ぎを覚える時、初め

て自分の体が水に浮いた感覚と似ていた。この時、神経症克服の最大の手が

かりを得たのである。明らかに敵のシッポが見えたのだ。私はこの誕生したばか

りの、ちょっとした刺激にもこわ毀れそうな感覚をしっかり覚えこんで心にしまい

こんだ。この感覚は以後の私の神経症克服への道明りとなるのである。この時

の不思議な解放感は、苦しみを排除しようという葛藤をやめて、曲りなりにもそ

れを受容したことによるものである。ここで排除に向っていたエネルギーが停止

し、幻映の悪魔を生み出せなくなったのだ。

 これを森田は「正受不受」と言っている。禅のコトバだそうだ。興生院の作業室

の壁にも貼られていた。詳しい意味は知らないが、読んで字の如く、「正しく受け

れば、受けずも同じ」ということだろう。例えば、速球投手のボールを下手に受け

れば手が痛くて受けられないが、うまく受けると何でもないといったような意味で

ある。

 今まで森田療法の世界をハイハイしていた私も、やっと伝い歩きが出来るよう

になったのである。神経症という魔球を今初めて森田療法というグローブで受け

とめたのかもしれない。この日を境にして、私の院内での行動がキビキビしたも

のとなり、日常が着実に蓄積されていくのが自覚できるようになった。その距離

は分からないが、目標地点が射程に入ったという健康な想念が私をひっぱって

いった。とはいっても心の中はいつもビクビクものだった。リハビリの回復期の人

が一歩一歩足元を確かめるように歩いているようなものだった。

 後にそのたどった軌跡を俯瞰してみると、ほぼ一直線に快方に向っているが、

現実の一瞬、一瞬においては、やはり様々な起伏があった。その一つ一つの小

さな体験の積み重ねを通して、不安は自らのはからいでコントロールしようとす

るよりも、それをあるがままにしておくと、やがて過ぎ去るものだということが、少

しずつ体得されるようになった。これもまた森田がよく引用する禅の文句である。

「心は萬境に従って転ず。転ずる処、実に能く幽なり。性を認得すれば、喜も無

く、亦憂も無き也。」

― 睡眠薬を断つ ―

 私にとって、次の関所は、睡眠薬を切ることであった。「薬に頼らないように」と

別に医者に命ぜられた訳ではないのだが、薬物の世話になることは自分の美

学に反するものであった。

 この薬を切るための闘いも、かなり熾烈なものであった。ただの不眠症では

なく不安で眠れない訳で、真夜中、周りの闇が一刻一刻の時の流れにのって、

不安の領域を広げていく。闇の中で、不安自体が息づいている気配をずっと感

じている。何度も起き上って、フトンの上に正座する。その瞬間、部屋の空気が

搖れて、不安の密度に濃淡ができる。意識は敏感にその間隙をみつけようとす

る。かなり緊張している。

 この時は入院以来積み上げてきたものを下手な刺激で瓦解させたくないとい

う保守的な気持が働いていた。神経症にとって逃げの保身は禁物であるが、こ

の時は生まれたての赤ん坊のように自分を大切に扱いたいと思っている。

 正座して、誰を想うこともなく、何を考えるでもないが、生きていることへの執

着の触手が薄い膜のように全身を包んでいるのを感じている。時計を見、枕元

の薬に目をやる。この時、不安に負け、保身に傾くと薬を手にとってしまう。その

誘惑をはね返し、再び横になる。不安を排除する気もなく、受け入れる気もない

が、時は過ぎ、いつの間にか朝になる。そんな日を一日一日、四日間つなげ、

五日目についに眠ることができたのである。

 朝、目醒めた時、「とうとうやった」と心で祝盃をあげた。何度も失敗をくり返し

この試みに挑戦して二十二日目のことだった。青蛙がついに柳の枝をつかまえ

たのである。この間、睡眠不足で倒れることも、身体を壊すこともなかった。いく

ら不安に見つめられてさえ、時満ち、身体が要求すれば、ついに眠りは手に入

るのだという経験をして、私のコレクションがまた一つ増えた。

― 陽気なZさん ―

 院内には、様々な神経症の人が居た。大きく分けて、私の様な不安神経症、

人に会うことや人の中に出ることに不安を感じ、人を避けようとする対人恐怖症、

それに刃物恐怖や不潔恐怖などの強迫神経症など、その他にも神経性の抑う

つ病、本物のうつ病そしてそううつ病の人もいた。こういう人達と一種の下宿の

ような形で朝から晩まで一緒に暮しているので、後から考えると色々な人間観

察が出来て、貴重な体験ができたと思っている。

 Zさんは、外向的で愉快な人だった。知り合って一週間も経たないうちに、彼

から同じ話を三度もきいた。「電車に乗れたんですよ」誰彼なく捕まえて話して

いる。この人は不安神経症の精神症恐怖である。ある時、新聞か雑誌で〝精

神病〟という文字を見たとたん、髪の毛が逆立つ程の恐怖を覚え、それ以後神

経症になったということだ。外で発作に襲われることを危惧するあまり、気軽に

外出できない。特に電車が苦手である。

 彼は臥褥中、「入院したんだ。さあこれで治るぞ」という安心感から、よく眠り、

食欲が増し、病院の食事だけでは足りず、看護婦に頼んで、何度もカンヅメや

果物を買いに行ってもらったそうだ。世間一般の目で見れば、「そりゃあ、元気

で何よりだ」ということになるが、これではまるで臥褥をする意味がない。森田

理論では、ごまかしのきかない環境で、病と向き合い、内省を深め、できるだけ

苦しみなさいということになっている。

 前回にも書いた通り、私にとってこの病院の治療法はあまりこうるさく言われ

ず、人間として対等に扱ってもらえ、自分の自主性が大いに発揮できる機会が

常にあり、実り多きものであった。しかし森田理論をあまり学習していない彼の

ような極楽トンボタイプには、まさに森田のような臨機応変で生活密着型、多弁

文学タイプの指導者が必要だろうと思われた。

 森田の指導は、通信治療や外来治療もあるが、入院者と生活を共にし、森田

自身患者の前に身を晒し、全人教育的な所があった。一方、ここでのやり方は

都会的でスマート、悪く言えばサラリーマン的であった。森田理論のエキスをし

っかり格子にもち、森田の教祖的、説教的な人間くさい部分を濾過するというや

り方である。森田のスートリー性を除去し、プロット(筋)だけ残すというものであ

る。

 これはある意味賢明で、森田のやり方をそのまま他人が真似ると、何とも様に

ならないいやらしさを露呈するであろうことは想像に難くない。森田のコトバは森

田のパーソナリティーと不即不離の関係にあり、森田の身体に肉化されたコトバ

である。それが森田自身の口から発せられるので説得力をもったが、他の医者

が同じことを言っても、コトバそのものが羞恥して、患者の所に届く前に、何処か

へ身を隠すにちがいない。

 興生院での治療は森田のそれのように、治療者を尊敬するとか、深い人間的

影響を受けるとかいうことにならなかった。そういう乾いた治療法は、治療効果と

いう点では森田に一歩も二歩も譲るだろうが、治療が治療者の人格に偏しない

という点では、ある普遍性を備えているともいえる。それがこの病院の創始者で

あり統括者である高良氏のすぐれた所でもあるし、物足りない所でもある。

 院内では日常、医者と接する機会はあまりないが、患者同士は一緒に過ごす

時間が多いせいもあって、もっと濃密なつき合いをする。だから自分がよくなると

いうことは、森田療法の生きた見本として、医者の言うことより説得力をもつこと

がしばしばある。そういう意味で、Zさんは私のアドバイスをよくきいてくれ、また

症状に関する相談を度々受けた。

彼の関心事は、いかにすれば不安が軽減するか、また解消するかに集中して

いた。症状そのものに感心を向けているうちは、けっしてよくならないのだが、い

くら説明しても百遍も二百遍もくり返し同じことをきくのであった。私のアドバイス

は、「症状をそのままにして、目的本位の行動をとること、おかれた場での日常

生活を大切にすること」というのであった。「Zさん、あなたは水に濡れないで、泳

ぎを覚えようとしているが、そんなうまい方法がありますか」とも言った。

― Dさんとあきらめる ―

 もう一人印象に残る人がいた。心臓神経症のDさんである。この人は入院が今

回初めてではなく、仕事の空いた時間に何度も入院していた。心臓神経症は、

今はパニック障害などと呼ばれる。比較的多い病気で、やはり不安神経症の一

種である。

 ある時、外出先で心悸亢進発作を起し、それを予期恐怖するようになり、殆ど

といっていい程外出できない。そんな事情で塾の教師をしている。私も当時塾の

教師をし、出身大学も同じ、年格好も同じ、若白髪も同じで、何だか似ているな

と周りの人に言われた。

 彼はある時、こんなことを言った。「俺が女房と子供にしてやれることは、あい

つらの前でせめてニッコリ微笑んでやることだ」それをきいた人が「Dさんは悟っ

ているネ」と言ったが、私は「何て情けないことを言う人だ」と思った。その様に

「あきらめ」てしまう程、長くて辛い闘病生活だったのだろう。

 しかしそれは森田療法的ではない。正岡子規の如く死に見入られ、動けなくな

っても枕を杖にして、生を謳歌するというのが、森田の世界なのだ。彼は森田理

論を十分理解する能力がありながら、全く学習しようとしなかった。「理屈では治

らぬ」が口癖で、その傘の下から出ようとしなかったが、せめて「理屈だけでは

治らぬ」の域まで進んでもらいたかった。

 「あきらめる」にしても、森田療法のそれはもっと積極的なものである。「あきら

める」は文語の「あきらむ」からきている。つまり物事を明らかにして、はっきり見

定めることである。「明く」の前提として「開く」がある。物事をつきつめて考えてい

くと想念が満ちてゆく。そしてあるいは融合し、あるいはぶつかり、その運動のも

つエネルギーが、ある閾値を超えた時、ついに閉ざされた空間が外に向って開く。

そこから射しこむ光で、想念の正体が照らし出され、その実相が浮びあがる。そ

れが深層の意味における「あきらめる」である。

 私は学生時代、少しばかり中国語をかじったが、中国語でも「あきらめる」は

「想開」という。「あきらめる」にしろ「想開」にしろ、考えられているよりもっと能動

的な為で、自分のおかれた状態、情況をよく認識し、できることと、できないこと

を、ぎりぎりで見定めるということであり、一種の「覚悟」を伴うのである。彼が奥

さんや子供の前で絶やすまいとする弱々しい微笑みの底には、「あきらめる」こ

との誤解がある。

 本当の「あきらめ」とは、〝症状は過去の総体として、自分が作り出したものだ

から受け入れよう(つまり仕方ないからあきらめよう)。しかし一人前の人間として、

女房や子供のためにも、外出せずに暮すことはできないのだから、発作が起っ

ても起らなくてもやるべきことはやろう。〟ということなのだ。真の意味の「あきら

め」を「逃げ」にすりかえる。そのような行動パターンの中からは、いくら入退院を

くり返しても、克服の糸口は見えてこない。森田療法では、この真の意味の「あき

らめ」を「あるがまま」といっているようである。その頃、私はこのことを実践として

解りつつあったので、Dさんをはがゆい思いで見ていた。普通退院する時は、医

者を含め、みんなが門の所で歌を唱って送り出すのだが、彼は二、三の親しい

人にこっそり告げただけで、夜陰にまぎれて退院していった。

入院者の中で、一番多いのは対人恐怖症だった。これはムラ社会を文化的な基

盤にもつ日本の特異的な現象だと言われる。ムラ社会では限られた一定の場所

で、毎日死ぬまで同じ人達と顔を合わせ、生活を共にするという気苦労の多い人

間関係が存在する。ムラ社会では「出る杭は打たれる」という如く、個よりもまず

全体の協調性が重要視され、人にどう思われているか、人にどう見られるかとい

う相手の視線を意識しなければ生きられないのである。もしそれを無視すると手

痛いシッペ返しを食う。

 都会に出て勤め人になっても、その本質は変らない。会社、役所、学校もムラ

社会そのものだと言える。国会議事堂の中もそうである。市民運動の中でさえ似

たようなことが言える。これは文化の問題だからいいとか悪いとかの問題ではな

いが、そういう文化的風土の中で培われるのが対人恐怖症である。もっとも昨今

は対人恐怖症より、うつ病の人が増えているようだが、これはひょっとして日本型

ムラ社会が崩壊して、一人一人が他人の大海に投げ出されたからかもしれない

が、このことについては別の機会に考えてみたい。

 対人恐怖症の人は人前に出るのを嫌がる。入院者の中でもひどい人は、部屋

ら出るのさえ厭う。電車に乗れば、必ずドアの所に立って、他人と視線が合わな

いように外を見る。自分の一挙一動に視線の刃を感じている。しかし彼は本当の

人嫌いではない。それどころか人と交わりたい、人によく思われたい、人に愛され

たいと思っている。思いながらできないので煩悶するのである。「人を見る時、目

つきが変になる。」とか「顔がゆがんでしまう」とか「みんなが自分を見ているよう

な気がする」とか「人からつまらない人間と思われているのではなかろうか」とい

ったことを気にする。それを気にし、うまくやろうとすれば、益々ぎごちなくなるの

である。しかし他人は本人が思っている程、彼を注目している訳ではない。これも

やはり一人相撲なのだ。

 かつて対人恐怖症の人が「自分はひどい時には、鯉の顔も正視できなかった」

といった。その時森田は「何故正視できないか、分かるか」と尋ねる。しばらく答え

られないでいると、「それは鯉を見た時、鯉を見ないで、人に対した時の、自分の

気持ばかりを見つめるからだ」と、森田は教えるのである。自分の心ばかり覗い

ているというのは、不安神経症も強迫神経症も対人恐怖症も皆同じなのだが、病

気で苦しんでいる時は、互いが互いの悩みをよく理解できないで、「この人は何で

そんなことぐらいで苦しんでいるんだろう」といぶかしがり、皆、自分が一等苦しい

と思っているのである。私の観察した所では、不安神経症の人は割合陽気で外向

的、可愛がられ、甘やかされて育った人に多く、対人恐怖症の人は、内向的で、

比較的厳しくしつけられて育った人に多い。そしてもう一つのグループはうつ病だ

が、長くなりそうなので、これは割愛する。

― トウモロコシとぼたん ―

 さて本人のことに戻るが、私が退院を決意したのは、起床三十二日目である。

入院は森田正馬全集の入院患者の日記を見て、全快して退院するものだと思っ

ていたのだが、ここで暮すうちに、やはり娑婆の日常実践を通し、もっと長い年月

をかけて克服するものだということが解ってきた。それ故、不安ではあったが、思

い切って外に出ようと思ったのだ。塾の生徒には二ヵ月したら帰ると言ってきたの

で、丁度二ヵ月目に退院することに決めその九日後に医者に告げた。見切り発車

して途中で撤回するようなことがあるときまりが悪いので、しばらく自分の様子を

観察していたのだ。

 医者の返事は勿論OKだった。その頃、私は病院内ではかなりの優等生で娯

楽室で教養講座や、自分の部屋で神経症克服講座を開いたりしていた。また院

内にうるおいをと木札に俳句を墨で書いて、木にぶらさげたりもした。例えば

  行き過ぎて尚連ぎようの花明かり

  妻と子の何興ずるや花あんず

  さりげなくリラの花とり髪に挿し

といった具合である。残念ながら私の句は見劣りして発表できない。退院までに

体験記を書くように、医者から勧められたが、いざ書き始めると不安が強く中断。

結局、体験記を冷静に書けるようになったのは、退院後一年経ってからである。

 この様に入院生活の後半は、不安を抱えながらも、極めて充実した生活を送っ

ていたのであるが、退院の日を告げた前日に、私が百姓するきっかけになった

極めて重大な出来事が起っている。

 入院者が連れ立って、深大寺にツツジを見に行った。全員心に病をかかえてい

るので花見に行ったって面白いはずがない。しかし、たまには浮世の春につき合

おうと、酒ももたず、足取りけっして軽やかならず目的地に向う。こんなみじめな

花見をしている人はいないだろうなと思いながら、この無味乾燥さを楽しんでやれ

と思っているもう一人の自分も確かにいる。

 帰路、新宿の駅の構内の花屋さんで、素晴らしいぼたんの花を見る。私はこの

優美で泰然とした花に強くひかれ、しばらくながめていた。その時ふと花ばかりの

病院の庭に野菜を植えてみたくなり、一袋百円也のトウモロコシの種を買う。


  次号に続く…                                (2009 冬)
# by kumanodeainosato | 2010-09-02 18:14 | 神経症体験

私の神経症体験 2

― 臥褥 ―

 私が森田療法の病院である東京の高良興生院へ入院したのは、1975年2月

26日だった。病院に着き簡単な診察を受け、臥褥に入るため、すぐにベッドに横

になった。臥褥というのは、森田療法独特のもので、患者は一週間なるべく慰め

になるようなものがない部屋で、洗面とトイレ以外は、ベッドに臥したまま、病いと

真正面から向き合うのである。森田療法では「煩悶から逃げるな。徹底的に苦し

め」という。

 私が通されたのは、白い壁で囲まれた部屋で、簡単な洗面の設備があった。

調度品は机と簡素な洋服ダンス、いかにも病院然としたベッド。それに小さな電

気ストーブがあった。枕元の壁には、電気設備を取りはずした様な穴が空いて

いたが、それすら慰めにできる程、殺風景な空間であった。この部屋の露骨な

合理主義を受け入れ、私は改めて前途の多難を覚悟した。症状との孤独で厳し

い二人旅があらたに始まる。

 昼間は色々な物音を通して外の気配を感じている。樹々で囲まれた院内は普

段は静まり返っていた。雪解けの雫の落ちる音がきこえる。時にバサッという大

きな音がする。雪が屋根から落ち砕け散るイメージを白い天井に追う。雪に映っ

た陽光の光の束を目頭に感じている。1日に数回、窓の外を通る入院者達の話

声がきこえる。部屋の外はまるでおとぎの国のように華やいで、好奇に満ちてい

る。



 しかし一転夜になると、事情は全くちがってくる。周りが暗くなり、人の活動が止

むと、闇の中から浮かび上るように、廊下で秒を刻む柱時計の音がはっきりきこ

えてくる。それでも宵のうちはまだいい。想像の上だけでも娑婆の人達と時間を

共有できるからだ。皆が眠ってしまう深夜から朝にかけてが一番辛い。その無限

とも思える時間を、苦悶とずっと向き合っている。時には真夜中に起き上って、ス

トーブのスイッチを入れる。ジーンと音がして、二本の細い筒が、そこだけつまし

く赤になる。手をかざしてしばらくその赤を見つめている。

 臥褥に入って、三、四日過ぎた頃、空いていた隣室に新しい入院者が入った。

どんな人か分からないが、隣人は気になるものだ。食事が終ると、食器を部屋の

外に出すのだが、その相手の気配のまだ残っている食器が唯一の情報源だ。こ

の人はいつもだいたいきれいになっていた。食欲どころでない私は、たいてい残

していたので、それを見ては「ああ俺の方がジュウショウなんだ」と、益々落ち込

んでいた。

 食事は先輩の入院者が部屋まで運んでくれる。ドアがノックされる。「どうぞ」と

いっても、なかなかドアを開けない人がいる。行ってしまったのだろうかと思う程

長い時もある。普通、神経症というのは外見ではなかなか分からないものだが、

この人の場合は一見してそれと分かるものだった。一体この人は何に苦しんで

いるのだろうか。

― 森田療法 ―

 一週間すると、ベッドを離れ、外の空気が吸えるようになる。森田全集では臥褥

が空けたとたんに治ったというのが何例もあるが、僥幸は起らなかった。一つの

難関は突破したが、「もしかして」の期待を裏切られた落胆の方が大きかった。

 一人ゆっくり院内を歩く。一週間見続けた白い壁と白い天井の残像の上に映る

院内の情景は、実に様々な変化に富んでいて、実際よりもはるかに広く見える。

自分の症状にとらわれ、その変化に一喜一憂し、自分の偏狭な小宇宙に幽閉さ

れた入院者の心を、外界に連れ出し、客観世界に誘導するための工夫が色々

凝らしてある。

 起伏や障害物を利用して院内一周のゴルフコースが設けてあったり、小さな

池があったりする。池の中では、樹々からもれる陽を浮べて金魚が泳いでいる。

多種多様な樹木が植えられ、特に桃、梅、あんず、木れん、ライラック、海棠と

いった花を楽しめる木が多い。

 樹々の間には「不安常住」というような文句を書いた木の札が立っている。日当

たりのいい場所には花壇があり、植木鉢が置いてある。木のないスペースには

卓球台があり、ピンポンの音が青い空にはずんでいる。庭と反対側の隅には焼

却炉があり、その奥には燃料用や木工用の廃材置場がある。どんずまりは風呂

のたき口である。

 私のいるこの病院は高良興生院といい、森田の弟子である高良武久という人

がここのボスである。森田療法は保険がきかず、一日六千円の入院費は、当

時としてはかなり高額で、治るまでというより金が尽きるまでという人もいた。

 私は別に金に困っていた訳ではないが入院は二ヵ月と決めていた。高良先生

は当時既に八十歳くらいで、治療には直接携わっておられなかった。森田のよ

うな独創性や強烈な個性はないが、なかなか冷静で知的な人である。

 森田療法というのは、森田正馬という人のパーソナリティーに負う所が大きく

(この点甲田療法と甲田先生の関係とよく似ている)生きた森田を通して最大の

治療効果が発現されると思われるのだが、それを森田から半ば切り離し、平々

凡々な医者でも治療できるような形に普遍化しなおしたという点においては、高

良先生の功績も大きなものがあると思う。そのことによって治療効果は薄まった

が間口はずっと広くなった。

 ただ私はその頃、森田に心酔していたので、森田以外の医者は十把ひとから

げで皆頼りなく見えた。それ故入院の心構えとしてまず自分に課したのは、生身

の医者の背後に森田の姿を見、森田がしゃべっていると思いこんできくという態

度だった。森田は多くの患者にとって、医者としてだけでなく、師として仰ぎ見ら

れる存在であった。

 興生院では医者と患者の間はそんな濃厚な関係ではなく、良くも悪くもサラリ

ーマン的であった。しかし生半可に知的で小生意気な私としては、森田先生と別

な人格の医者が森田の雛形として振るまわれるより、少々味は薄くても、サラリ

として都会的なこの病院のやり方の方が性に合っていた。

 私は医者の指示に従ったが、医者を頼ることはしなかった。自主的に自分を律

し、自分の判断で行動した。娑婆での私は、相当奔放でやんちゃであったが、院

内では院内の規範を尊重し、自己のペースに巻き込まれないようにした。森田理

論を実践するというのは、私という人間の大いなる改造でもあった。森田理論はか

なり精通していたので、先生方の講和をきいても、さほど刺激されることはなかっ

たが、謙虚に拝聴するよう心掛けた。心の矯正はまず態度の矯正だと思ったので

ある。事実その通り続けていれば、まがいものでもだんだんそれらしくなり、ある

種の内面の変化を引き起こすという体験をした。

― 様々な神経症 ―

 院内の一日は朝の掃除から始まる。その時既に起きている誰かが7時にチャイ

ムをたたく。不安で眠れない私はとっくの昔に起きてホウキをもっている。ベッドで

不安と格闘しているより、身体を動かしているほうが楽なのだ。「修行にホウキは

つきものだな」と一人苦笑していることもある。

 臥褥が空け四、五日もすると、院内の様子も大分解ってきて、色々な人と話す

ようになる。私の部屋に食事を運んでくれた例の人に思い切って尋ねてみた。

「Bさん、あなたは何処が悪いんですか」彼は、はにかみ気味の力のない笑みを

浮べ、「僕は刃物恐怖なんですよ」これは強迫神経症の一種で、他に不潔恐怖、

計算恐怖、確認恐怖など様々なものがある。彼の場合は、あちこちから刃物が出

ているように思え、そんなことはないと知っているのだが、それを確かめてからで

ないと行動に移せないのだ。食事の時も茶碗を見つめ、人が食べ終った頃、やっ

と食べ始めるといった具合である。

 Tさんは、見たところ何処がおかしいのか全く分からない。きいてみるが、「その

うち分かりますよ」といって周りの人と顔を見合わせて笑っている。さてその日の

夜のミーティング。順番に自己紹介し、彼の番になった。と、そこで突然流れが止

まる。「タッ、タッ、タッ」と自分の頭音をくり返すが、後が出てこない。つまりこの人

は自分の名前が言えなかったのである。

 心の悩みは、人各々色々あるが、神経症の「とらわれ」の内容をきくと、「何だそ

れぐらいのこと」と笑い出すようなことが多い。しかし神経症の場合、問題にしなく

てはならないのは、「とらわれ」の内容ではなく、「とらわれ」そのものなのだ。その

「とらわれ」を生んでいるのは、生き物なら誰でも持っている自己防御本能である。

 これは危険に遭遇した時、必要な装置なのだが、それが別に危険でもないもの

に対し、異常に過敏に働き、反芻をくり返すのが「とらわれ」なのだ。その点では、

免疫作用において、さして危険でもない抗原に対し過敏に反応するアレルギーと

そのメカニズムはよく似ている。正常なら、普段鞘に収められているその装置が、

「とらわれ」の対象に対して高いアンテナまで張り、剥き出しの状態のままおかれ

ているのである。

 さて当の私であるが、すべり出しはまあまあ順調であったのだが、起床十日目

ぐらいから、三日間非常に強い不安に見舞われた。余りに耐え難いので三日目

にとうとう看護婦に薬を出して欲しいと所望する。主治医が了解したと言って、彼

女が薬を持って来てくれた。まさにその時症状が少し軽くなって、結局そのまま

薬に手をつけずに済んだ。この時、もし薬に手を出していたら、回復はずっと遅れ

ただろう。

 後になって医者に「あれ程の苦痛に耐えるのは三日が限界だ」と言われた。ギリ

ギリまで我慢したおかげで、自然に不安が去ったのだろう。家で経験した劇症不安

の時は、失神して眠ってしまったが、人間の生理とはそういう風にできているもの

なのだ。

            

 次号に続く…                                 (2009 秋)
# by kumanodeainosato | 2010-09-02 18:11 | 神経症体験

私の神経症体験 1

―死に出会う― 

 私の人生で最も大きな問題は「死」であった。特に若い頃は、そいつに気が狂う

程悩まされた。子供の頃身体の弱かった私はよく病気をしたが、そのたびにもう

治らないで死ぬのではないかと小さな胸を痛めていたことを覚えている。

 「死」の観念が牙をむいて私に襲いかかってきたのは、小学校の五年生か六年

生の時で、それは全くの不意打ちであった。小便臭い田舎の映画館で、近所の

三つ年下の男の子と並んでチャンバラの映画を見ていた。当時映画は最大の娯

楽で、たまたま誰かに券をもらって子供同士で来ていた。確か鞍馬天狗だったと

思うが場面はクライマックス。嵐寛扮する天狗が木っ葉役人をバッタバッタと切り

倒す。胸のすく見せ場である。

 その時何故だか知らないが、私はふと敵側の立場に立ってみたくなったのであ

る。死体累々であるが、切られたあの人達に家族はないのだろうか。家に帰れば

妻も子もいるのではないか。その家族の悲惨をイメージしたまさにそのとたん「死」

が私を直撃した。いずれ自分もこの世から消えてなくなることを現実感を伴って自

覚したのである。消滅した自分を想像する程恐ろしいことはない。

 私は一瞬にして映画の外へはじき飛ばされてしまった。相棒には何も言わず席

を立ち、外に出る。恐怖とパニックでじっとしていられず、取り入れの終った稲株

の並ぶ田んぼ道をひたすら走った。景色は寒々としてよそよそしく、私は孤独を

通り超して、孤絶の中にいた。何と人生とは油断のならないものだろう。今や私は

世界の孤児であった。走っても走っても、逃げても逃げても恐怖は追ってくる。こ

のままでは「気が狂う」と思った。逃げることを止め、震えながら幼い頭で必死に考

えた。

 「今すぐには死なない。死はずっと後のことで、それまでに解決方法を見つけよ

う」「人は例外なく全て死ぬ。一人生き残ってもやっぱり孤独だ」とりあえずこの二

つの間に合わせの処方箋をこしらえ、何とかパニックは治まった。しかしそれ以降、

「気狂いの種」をかかえこむことになり、長い間「自分が消えてなくなることの恐怖」

という鎖につながれることになる。この難問を解かねば自分の本当の人生はない

と思いながら、問題に向き合うと、たちまちパニック状態を呼び起こしてしまうので

そのことを意識的に封印していた。その矛盾の中でけっして暗くはない青春時代

を生きたが、心の奥には常に未消化の塊が重苦しく存在し続けていた。何事に対

しても価値を見出すことが出来ず、虚無的な日常の海を漂流していた。

 学生時代、世はまさに政治の季節で、ベトナム戦争、日韓条約、中国の文化大

革命、全共闘運動と生真面目な学生はこの情況に何らかの形で関わっていった

が、私の心は政治的なものに対しさほど反応を示さなかった。

 私はいわば文学青年であった。しかし他人の詩や小説に興味があった訳ではな

い。この様な質の人間には文学みたいなものによってしか救われないと、あまり根

拠もなく信じていたのである。

 卒業が近づいても、企業に就職する気は全くなかった。父は小さな会社を経営

していたがそれを継ぐつもりもなかった。学者になる程勉強好きではなかったし、

物書きで食っていく程の才能もなかった。まさにないない尽くしの八方塞がりで、

仕方なく故郷の大阪に帰って学習塾を開いた。この頃既に結婚していて、何らか

の形で生活費を捻出しなければならなかったのである。

 塾は盛況であったが、取り組むべき夢や課題が見つからないまま、時間と共に

後退していく我が人生を思い慄然とすることもあった。

―神経症になる―

 毎日焦りを感じながらも、歳だけはとり二十九歳になっていた。 そしてとうとう

怖れていたことが起った。数週間来、舌に異常を感じ、医者に行ったが原因が分

からず、四六時中なぜだろう考えているうちに、反芻によって蓄積されたエネル

ギーが閾値を超え、堤防が決壊した。濁流は私の虚弱な脳を呑み込み、「今度

は本当に狂う」と思った時、異常は舌ではなく、虫歯であることに気がつき、ホッ

とした。次の日、朝目覚めた時、昨日みたいなことが起ったら嫌だなあと思った。

その瞬間、昨日の心理状態になった。それは、少年の頃体験したあのパニック

状態、苦悶発作というべきものだった。発作は一定時間で治まる。しかし恐ろし

い発作にまた襲われはしないかと予期恐怖するようになる。これが問題なのだ。

一年に一度か半年に一度かめったにやってこない敵の影を恐れて、片時もその

想念から自由になることはない。これが不安神経症という病気であると知ったの

はもう少し後だが、その日から私は完全な囚われ人となった。

 そうなってみると、虚無感が絶望感に変った。虚無の昔は幸せだと思った。

 この苦悶発作、パニック状態というのの原形を探ると、実は小学四年の時にあ

る。近所の川で水遊びをしていて溺れた。アップアップしている時、「ここで死ぬ

のか、この若さで」と思うと、何とも口惜しく切なく、胸がしめつけられ、頭が爆発

しそうになった。この時運よく助かって、恐怖体験はすぐ忘れてしまったのだが、

どっこい潜在意識の中にもぐり込み、私の人生を傀儡したのである。映画の発作

も二十九歳の発作も、この時のものと全く同じものである。

 さて神経症予備軍から二十年かかり正規軍に入隊した私は、更に過酷な体験

をさせられることになる。病の初期の頃はパニックに対する予期恐怖であったが、

一年程するうち、病膏肓に入り、常時強い不安を感じるようになった。その不安が

極点に達したことがあった。あまりの苦しさのためタタミをかきみしり、壁に頭をぶ

ちつけた。その時斧で手足を切り落とされても何も感じない程の苦痛だった。観

念の中だけで起っていることなのであるが、それは明らかに物理性をもち、本物

以上の兇器となって肉体の脳を切り裂いた。

 私は劫火に焼かれながら人間の業の深さを思い、そのエネルギーの凄まじさ

に驚嘆していた。人間というのの底知れぬ闇と同時に無限の可能性をも感じて

いた。「もしこの負の回転を正の回転に変えることができたら、どんんなことでも

できるだろうと」

 生き物の生理というものはよく出来ている。妻が医者に薬をもらいに行っている

間に、私は気を失って眠ってしまっていた。身体の限界を超えると、生理は意識

をなくすようになっている。

 朝になって目醒めた時、頭はスッキリしていた。覚悟も出来ていた。「もう俺の

手に負えない。入院して森田療法を受けよう。」と。森田療法というのは、戦前、

精神科医の森田正馬が自分の体験に基いて開発した日本的な心理療法で、神

経症の治療に劇的な効果があることが珍しくない。一週間程度の臥褥と作業、

日記指導等を通して自己洞察を深めていく。丁度神経症に罹った年に森田の全

集が出た。私は森田の烔眼に何度も「その通り」と独人ごとを言いながら、貪るよ

うにして読んだs。

―森田の教え―

 森田の教えをひと言で云うと「あるがまま」ということである。「〝不快〟に対し

て抵抗するな。不快は不快のままにして、やるべきことをやれ」というのである。

神経症というのは頭の中で起るある「とらわれ」による不快に対して、それを排除

しようとして、自分と自分が死闘を繰り返す悲劇であり、喜劇である。不快に対し

て抵抗を強めると、その抵抗分だけ不快度も増す。益々不快なので益々抵抗を

強める。

 この「とらわれ」は頭がでっちあげた一種のフィクションであるが、一度その罠に

はまると容易に抜けれない。この枯れ尾花と闘う観念論者に対して、森田は事実

唯真を説く。私の印象に残っているのは、こういう話である。

 森田存命の当時森田の家に下宿するような形で患者は指導を受けていた。あ

る日の一コマ。洗濯物が風で飛んだ。そこに行き合わせた患者は急いでそれを

拾い棹に戻した。縁側のその様子を見ていた森田は手招きしてその患者を呼ん

だ。「君、あの洗濯物は乾いていなかったか」患者はハッとする。彼は森田の視

線を気にして洗濯物を拾い上げたが、乾いているか確かめなかったのである。

 又こんな話もある。ある時、森田は拭き掃除の雑巾を患者に縫わせた。一人の

患者がその日の日記に「今日はいい運針の勉強になった」と書いた。それに対し

森田は「運針の勉強のために雑巾を縫わせたのではない。雑巾が必要だから縫

わせたのだ」

 後者は少々極端であるが、神経症者にはこのぐらいの矯正でバランスがとれる

のである。

 しかしこの私はそういうことを頭ではよく理解し、重々承知しながら、体得には至

らず、ついに入院ということになった。「論語読みの論語知らず」とは誠によく言っ

たもので、この時ほど体得することの大変さと大切さを知ったことはない。

―リトル・トリー ―

 そのことできまって思い出すのは「リトル・トリー」という小説である。この作家は

幼い頃両親が亡くなりインディアンの祖父母のもとで育てられるが、その時の体

験をふまえて書かれたものだ。

 少年は祖父母の話すKINというインディアンの言葉に興味をもつ。文脈で考え

ると、どうもLOVEとUNDERSTANDの意味で使われているようだが、そのこと

を祖父にきく。「お前の言う通り、時には『愛する』と使われ、時には『理解する』と

使われる。でもそれは同じものなんだよ」

 ここに「愛する」ことの体得と「理解する」ことの体得が示唆されていないだろう

か。私達は自分と対象、主観と客観、精神と肉体などという二元論的な精神風

土の中で物ごとを判断し、そういう習慣を骨肉化させてしまっている。その結果、

多くの人々は自分達の方法論が、物を知る上で、たくさんある方法論の一つで

あるという自覚すらない。むしろ唯一の方法論であると錯覚している。「愛する」

ことと「理解する」ことが別のものとする文化と、同じものとする文化。どちらがす

ぐれているのか知らない。しかしよりどちらが神の視点に近いかといえば、おじい

さんの方であることはまちがいない。

 さてその頃近代人であった私は理解と体得の溝を埋めることができず入院と相

成ったが、入院に際して医者から「君は森田理論は充分過ぎるくらいだから、ここ

では本は読まないで実践するように」と釘を刺された。



 次号に続く…                               (2009 初夏)
# by kumanodeainosato | 2010-09-02 18:03 | 神経症体験

甦る日の喜び 最終回

      明治維新で棄てた日本、敗戦で棄てた日本、高度成長で棄てた日本。

      これらの日本をこれから拾い直していかなければならない。

      それぞれの時代には棄てざるを得ない事情があったのだろう。

      歴史のその時点に身を置いてみないと分からない。


      しかし時は変わった。

      イギリスに産業革命が始まって約二世紀半、ヨーロッパに波及して百七十年、
      日本が仲間に加わり百三十年。

      資本主義は世界を席巻したが、この体制の終焉も見えてきた。

      今こそ進歩や便利さの陰で犠牲になってきたものに目を向けるべきである。

 
      幸い私達は高度成長以降、この五十年間、腹いっぱい食べることができた。

      あふれる物に囲まれ、商業が提供するおもちゃを次から次へと取っかえいった。

      物質的贅沢はもういいではないか。

      これからは精神的贅沢の時代だ。

      
      一枚の紅葉に心を動かされ、天下の秋を想う。

      そのためにたとえ一本でも木を植えよう。

      コンビニのおにぎりでなく、手作りのおにぎりを食べる。

      そのために荒れた田んぼに稲を植えよう。

      焚き火の火を見つめ、天空の月を愛でる。

      そのために仲間と心を通わそう。

      春になれば川に出てボロ舟を浮かべる。

      そのために、冬の間舟の修繕をしよう。

      暑い夏にはスイカを冷やして食べる。

      そのためにスイカを吊るす井戸を掘ろう。


      数えあげれば贅沢なんていくらでもある。

      本当の贅沢は心を豊かにし、下界や他人と調和したものだ。

      お金で手に入るものではない。

      歴史というものをある断面で切れば、明治以降の百数十年は、私達にそのこと
      を教えるためにあったのだと考えてもいい。

      心も大切だが、ものや金も大切だと人は言う。

      でも心の方がずうっとずうっと大切である。

      特に物質的豊かさを享受した第一世界の人は静かに考えてみるべきである。

       
      幕末の人と私達とは同じではない。

      私達は近代、工業化社会を生き、近代的自我に出会い、実存不安も体験した。

      彼等ほど素朴ではない。

      しかしながら、〝陽気に生きたい〟とか〝人を喜ばせたい〟とか〝みんなと仲
      良くしたい〟とか〝困った人を助けたい〟とか本質的には同じものを持っている。

      本当の進化というのは、直線ではなくスパイラルなものだ。御先祖様から受け継
      いだもの―百年の塵芥の中に埋まって消滅したかに見えたものであるが―それ
      は、胸の底の底にある。

      それを一つ一つ丁寧に取り出そう。

      現代の陽に当てれば、当時よりも更に美しくそれは輝き出すだろう。

      「逝きし日の面影」は「甦る日の喜び」に変わる。

甦る日の喜び 最終回_a0129148_15542096.jpg



          ※参考文献  日本奥地紀行 イザベラ・バード 東洋文庫
                    江戸しぐさ完全理解 越川禮子・林田明大 三五館
                    誇り高き日本人 泉三郎 PHP
                    逝きし日の面影 渡辺京二 平凡社
# by kumanodeainosato | 2009-10-10 15:58 | プチ熊野大学

甦る日の喜びⅤ

      その頃「逝きし日の面影」などという本が出版されていたら、おそらく袋だたきに
      あったことだろう。

      戦後六十年経って、やっとミソとクソの区別がつくようになってきたのかもしれな
      い。
    
      あの江戸庶民のしぐさた心根、心意気がたとえ少しでも戦前で消滅したことは想
      像に難しくない。


      そして高度成長。

      この時期エネルギー革命によりカマドや火鉢が姿を消し、井戸や水道にとって代
      わられた。

      また日本中の道路が舗装され、下駄屋やタビ屋もなくなった。

      大家族が核家族化し、地域が少しずつ崩壊し、人間関係がだんだん疎遠になっ
      ていった。

      つまり、江戸以前から連綿と続いていたカマドや井戸といった生活様式までなく
      なり、生活の中の自然的要素がことごと駆逐され、私達の感性を育んだカマドの
      火のあかいゆらぎや、夏の井戸の冷たさは記憶の中に残るのみ。

      子供たちはその記憶もない。

      大家族と地域社会で培った人間のつき合い方。

      人と接する時の間のとり方。

      情の交わし方。

      現代ではそれを学ぶ場も機会もない。


      しかし、しかしである。

      それ程遠い昔ではないあの江戸時代の人々の、西洋人を簡単せしめたよき人柄
      の血が、私達に一滴も受け継がれていないのだろうか。

      著者の渡辺京二氏は、二度と戻らない〝逝きし日〟と言っているが、私は甦り得
      ると思っている。


                                       *** つづく ***
# by kumanodeainosato | 2009-10-09 10:46 | プチ熊野大学