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よしおくんの日記帳

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甦る日の喜びⅣ

      西洋の工業力に目を見張った、という所に話を戻そう。

      スイスのベルンで岩倉使節団の久米邦武は市内の小学校を見学し、その教育
      の充実振りに感心し、実態を報告し、日本の教育と比較している。

      それによると、日本の教育は「道徳修身教育を重要視し、無形の理学、高尚の
      文芸を玩ぶ」とし、また上流階級にのみ高尚な教育を施し、女性や一般庶民は
      蚊屋の外としている。

 
      これに対し、西洋では実学を重んじ、一般の人にも門戸を開き、修身は協会で
      教えるとしている。

      日本の精神文化は高いが、実学を軽んじたために、工業力では圧倒的に差を
      つけられていることを、団員たちはこの旅行を通して身にしみて知ったのだろう。
  
      このことが明治五年の学生頒布につながり、続々と学校が建てられるようにな
      る。


      学校教育制度の整備によって日本は急速な近代化への道を進むが、いいこと
      ばかりではなかった。

      日本の進路がおかしくなていったのは日露戦争(明治三十七~三十八年)あた
      りからだと司馬遼太郎も鶴見俊輔も指摘しているが、その大きな理由の一つに
      指導者の質の低下があげられる。

      つまり日露戦争までの指導者は江戸時代に教育を受けた人であり、それ以降
      は明治になって学校教育を受けた秀才だというのである。


      江戸の教育は実学では劣ったが、下半身のしっかりした骨太な精神をもつ人間
      を作ったのである。

      逆に学校教育は効率的であったが、上半身ばかりが目立つ見せかけ人間を作っ
      たのかもしれない。

      国民皆教育は、文盲をなくし日本人の知性を多少たりとも高めたかもしれないし、
      そしてまちがいなく日本の近代化と工業化を促したのであるが、それらの時代の
      変化の中で、あの江戸庶民達は、みんな何処かへ消えてしまったのである。


      そして太平洋戦争に突き進み敗戦。

      官武一途庶民に至るまでアメリカの物量に驚嘆し、平伏し、羨望する。

      厚木の飛行場を降り立った丸腰のマッカーサーをカッコイイと思い、猫背の天皇
      と長身のマッカーサーの写真に二つの国の暗喩を見るのである。

      アメリカという国は無限にあるタダの土地とタダ同然の石油を、湯水の如く使って
      大きくなった使い棄ての国である。

      狭い国土で知恵を頼りにやりくりしてきた日本と全くちがうのに、「あぁ、アメリカに
      なりたい」と思ってしまったのである。


      貧乏人が金持ちに憧れたのだといえばそれまでだが、もし江戸や明治前半の知
      識人の如く、表層の頭脳ではなく深層の精神がしっかりしていれば、これ程まで
      にひどいアメリカの植民地にならずに済んだと思うが、当時の進歩的と言われる
      知識人は日本という文字にことごとく墨を塗り、封印してしまったのである。


                                      *** つづく ***      
# by kumanodeainosato | 2009-10-07 11:54 | プチ熊野大学

甦る日の喜びⅢ

      対比されるのはそればかりではない。
      近代精神を身につけていた西洋人は、市民社会の自由を享受し、自我を開花
      させつつも、一方では精神と肉体、天上と地上の分裂を経験し、実存的不安を
      醸成させていた。


      他方、日本人といえば、未だ西洋流近代精神など身につけておらず、身分性
      社会の壁など何処吹く風と、霊肉一体となって、天真爛漫に生活を謳歌してい
      た。

      近代精神により、近代以前の日本人の精神構造を遅れたものとして批判的に
      ながめつつ、近代化、工業化によって失った古き良き時代の人間の生き生きし
      た姿を当時の日本人に見ていたのである。


      しかしこの日本社会の真綿にくるまれた幸せも、間もなく終るだろうと当の西洋
      人が予測し、その通りになっていく。

      世界の中に投げ出されたら、日本は変わらざるを得ない。

      大久保や岩倉たちが明治四年から五年にかけて、アメリカ、ヨーロッパの視察
      旅行に出かけるが、ここで圧倒的な西洋の工業力に目を見はる。

      当時の日本の知識階級に西洋流の近代精神というものがあったかどうか知ら
      ないが、少なくとも精神構造の骨格の頑丈さは西洋人にひけをとるものでなか
      ったと思っている。


      「江戸しぐさ」に残っている通り、庶民ですらしぐさにまで高められた人を思いや
      るあれだけ高い倫理道徳をもっていたということが、それを証明している。

      もし日本人が文明的に精神的にもっと低い位置にあったなら、当時の国力から
      考えて日本は植民地化されていたかもしれない。

      西洋人は紳士面して人の家に入ってきて、「ここの家は文化程度が低いなぁ、
      私が人肌ぬいで教育してあげよう」と言って植民地化していく。

      「俺は搾取しに来たんだぞ」なんて正直なことは誰も言わない。

      大義名分という錦の御旗をかざして悪事にとりかかるのである。

      かつて日本もその真似をしたし、アメリカは懲りずにまだやっている。


                                      *** つづく ***
# by kumanodeainosato | 2009-10-04 11:32 | プチ熊野大学

甦る日の喜びⅡ

      例えば1878年、東北、北海道を一人で旅したイギリス人女性イザベラ・バードな
      どは、米沢平野を称して次のように述べる。

      「米沢平野は南に繁栄する米沢の町、北には人で賑わう赤湯温泉をひかえ、まっ
      たくエデンの園だ。
      鋤のかわりに鉛筆でかきならされたようで、米、綿、トウモロコシ、煙草、麻、藍、
      豆類、茄子、くるみ、瓜、胡瓜、柿、杏、柘榴(ざくろ)が豊富に栽培されている。繁
      栄し、自信に満ち、田畑のすべてがそれを耕作する人びとに属する稔り多きほほ
      えみの地、アジアのアルカディアなのだ」


      美しいのは風土ばかりではない。外国人女性が汽車も車もない時代、東北、北海
      道を旅したというのは凄いことだと思うが、それを可能ならしめた日本人、アイヌ人
      の倫理の高さに脱帽する。

      バードは言う。
      「女性が外国の衣裳でひとり旅をすれば、現実の危険はないにしても、無礼や侮
      辱にあったり、金をぼられたりするものだが、私は一度たりとも無礼な目にあわな
      かったし、法外な料金をふっかけられたことはない。」


      山形のある駅舎でバードが暑がっているのを見て、家の女たちがしとやかに扇子
      をとりだし、まるまる一時間も煽いでくれた。
      代金を尋ねると、いらないと言い、何も受け取ろうとしなかった。

      こういう話はザラにあり、楽天的で無邪気に見える当時の人々が、いかに高い倫
      理的規範を生活習慣の中に溶けこませていたかということの証左でもある。


      この頃西洋社会は既に工業化が始まっていたが、初期工業社会が生み出した都
      会のスラム街、そこでの悲惨な貧困と道徳的崩壊を見た目には、工業化以前のこ
      の爛熟した農業と手工業社会の中で和気藹々と暮す人々の姿は、地上の楽園を
      想起させたことだろうし、自らの過去へ郷愁せしめたことだろう。


                                       *** つづく ***
# by kumanodeainosato | 2009-10-01 16:37 | プチ熊野大学

甦る日の喜びⅠ

      「逝きし世の面影」という本がある。

      ここには西洋人の目で見た幕末から明治初期にかけての日本、日本人が様々な
      形で語られている。あるは条約を結ぶため、あるは明治政府の要請で多くの西洋
      人が日本を訪れ、この国の風土に、この国の人々に魅了された。

      中には辛口批評もあるが、なべて好意的で、同じ日本人である私ですら、その時
      代に行ってみたい気になる。


      彼等によると、私達の御先祖様は親切で陽気、ユーモアがあり天真爛漫、楽天的
      で開放的、優しくてお人好し、慎み深くて倫理的、礼儀正しく穏やか、従順でがま
      ん強く、快活で遊び好き、温厚、正直、質素、とおおよそ人に与え得る限りの賛辞
      を浴びせている。

      その描写、説明から想像される当時の日本人は、現代人よりはるかに人生を楽し
      く生きていたということである。

      現に何人もの西洋人が、日本ほど幸せな人々はいないし、日本ほど美しい国はな
      いと言っている。

      
      それも支配階級である武士よりも庶民の方が生き生きしている。優秀な官僚であっ
      た武士(中にはボンクラもいただろうが)は武士道を拠り所として質素に生き、つい
      たての向こうで庶民は思いきり羽を広げて生きていたようなのである。

      武士と庶民の階級差別は歴然とあったが、大方の庶民はそれを当り前のこととして
      受け入れ、オレ達はオレで気楽にいこうという態度だった。

      その圧倒的楽天主義は、生活まるごと笑いの揺りカゴにしていた。

      江戸の農村においても、私達が歴史の時間に教えられたような悲惨な農民生活と
      いう情景はあまり一般的ではなく、農民達もそれなりに生活をエンジョイしていたよ
      うである。



甦る日の喜びⅠ_a0129148_1446343.jpg



                                          *** つづく ***
      
# by kumanodeainosato | 2009-09-30 14:29 | プチ熊野大学

「炎天下の幸せ」

      炎天下で仕事をするのが好きである。
      
      若いうちから、帽子もかぶらず、上半身裸のスタイルは今も変わらない。
      オゾン層がどうの、紫外線がどうのと言われる時代にあって、この格好は子供に
      真似させる訳にはいかないが、帽子やシャツは汗の体にまとわりついて、どうもう
      っとおしいのである。

      真夏の太陽は暴君である。
      その暴君の直情を受けとめながら、肌の焼ける音をきくのが好きだと言えば、「ア
      ホか」と言われそうだが、炎天下は一種独特の雰囲気があって、人を誘惑し鼓舞
      させる力をもつ。

      高校球児の甲子園でも、春より夏の方が詩情がありドラマチックである。
      灼熱と対峙できる生命力の輝きを全身で表現するのが夏の甲子園であり、我が
      夏の畑仕事である。

      只太陽だけが照りつける静寂の中で、黙々と作業を続けるその風景に人生の物
      語りを感じて私は遊んでいる。

      その愛すべき夏が今年は長引いた梅雨のせいで、秋風と一緒にやってきた。

      やはり夏は夏であって欲しい。
      スイカは豊作だったが、冷えたスイカが「うまい」と感じるようになったのは、ようや
      くスイカも盛りを過ぎた盆に入ってからである。

      私みたいに長年百姓してきた人間は、自然のリズムと共にあるので、それをはぐ
      らかされてしまうと行き場を失い、消化不良になってしまうのである。

      季節が季節らしくあることを有難く思う。
「炎天下の幸せ」_a0129148_17193762.jpg
                                      









      

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# by kumanodeainosato | 2009-08-21 17:26 | よしおくんの農