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よしおくんの日記帳

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「ノンアルコールビール」

      キリンがアルコールゼロのノンアルコールビールを出した。
      これはなかなかのもので、これまで飲んだノンアルコールものよりずっと旨い。
      本物のビールの感触があるのである。

      「旨い」を連発すると、佐代が隣で、そりゃアミノ酸のせいだといって艶消しなことを
      言う。
      あるいはそうかもしれないが、私にとっては「キリンさんありがとう」だ。

      十六歳よりアルコールとつき合い出し、二十歳ぐらいからは親友となってしまい、
      ビールとのつき合いも随分続いた。
      四十の半ばぐらいからアルコールを飲むと時として、心臓痛に襲われるようになる
      が、「えい、ままよ」と飲み続けた。
      
      しかし、五十半ばでついに飲めなくなり、生命とお別れする前にアルコールと涙の
      お別れということになったが、既に時遅し、六十歳になる直前、心筋梗塞で倒れた。

      アルコールと親友づき合いしている頃は、「酒なくて、何ぞ人生」などと思っていた
      が、アルコール御法度になると、憧憬の思い募ると思いきや、さにあらず、「酒など
      なくて、よき人生」と思えるようになった。

      私のこの御法度主義の性格、常々神に感謝している。

      それなのに、何でまたノンアルコールビールにまでと思うが、アルコールではなく、
      あのビールの味が忘れられず、宴席やら、夏の夕刻には時々お世話になっている
      のである。

      今までのノンアルコールビールは、ノンと言いながら、通常のビールの十分の一ぐ
      らいのアルコールが含まれており、味は水っぽく、ようやくビールもどきといった所
      なのだ。
      ところが、このキリンのゼロパーセントは、鳴り物入りで発売されただけあって、よ
      くぞここまでこぎつけたなあという感が深い。
      
      アルコールが入ってないので酔うことはないが、本物のビールを飲んでいるような
      気になり、胃が少し熱くなったなという気がして、もはや偽物も本物も変わらない。

      格別酔った感じがしないのは、ノンアルコールのせいではなく、酒に強くなったんだ
      と思えば、身体が爽やかなまま苦もなく酒宴に参加できる。

      つい先頃ノンアルコールビールがなくて、代替にわずかコップ一杯本物のビールを
      飲んだが、もはや身体がアルコールを受けつけず、こんなまずいものよく飲んでい
      たなと思った次第である。
# by kumanodeainosato | 2009-08-21 16:20 | よしおくんの食

「無題」

      いきなり尾籠な話で、恐縮でありますが、あのうんこなるもの、人間としてこの地
      上界に生まれ一生つき合わねばならないもの。
      このものについてつらつら考えるに、いや実に不思議というか奥深いというか、な
      めてかかれないものだなあというのが、実に齢64歳にして、やっと解ってきた次
      第です。

      私め、幼少のみぎりより胃腸が弱く、緩る腹になったり、張り腹になったりと、腹の
      ことではなかなか苦労を重ねてまいったのですが、数年前より洗腸器なるものを
      使用するに及んで、快腸な毎日を送らせていただけるようになったのです。

      数年前まで、私の腹の中にあったものをつくづくながめては、「あら尊うと」と手を
      合わせ、神様に感謝します。
      うんこが尊い訳ではなく、うんこを身体から出していただける働きが尊いのです。

      この世という三次元世界で生きるために、身体という器を与えられました。
      そしてその器を維持し、働かすために食物をとります。
      食物をとればカスが出るということになり、これがうんこと称するものです。
      
      カスでもカンナくずのように、いいにおいのものもありますが、このカスは何故汚く
      てくさいのでしょうか。
      これには意味があるのです。
 
      私達は個別化された体をもっているために、その自己というものを守ろうとします。
      その自己保存の最も原始的な形態が食べるということです。
      
      自己は食べるだけでは満足せず、際限なく自己自身の拡大を計ろうとします。
      その過程で人とまさつを起こし、傷つけたり、意地悪したり、圧力を加えたり、ある
      いは闘ったりします。
      これによって生まれるのが「業」というものです。
      あるいは自己拡大の宿命そのものが「業」といえるでしょう。

      私はうんこはこの「業」が形になったものではないかという気がするのです。
      だからくさくて汚い。
      いい香りできれいなうんこ等というものはありません。
      
      洗腸して腹の中がすっかり掃除した時、この上なく爽やかな気分になるのは、あ
      れは業の浄化の疑似体験をしているからかも知れません。
      同時に自分のうんこを見て己が業の深さを知るのです。
      
      来る日も来る日も業は貯まります。
      食べるというのは、そういう行為で、生きるというのはそういう行為です。
      
      この世とはそういう所で、人間とはそういう存在であると言ってしまえばそれまで
      ですが、私は硬派のくせに「人間だからね」なんていうのは嫌いです。

      この世とオサラバする前に、この循環の外に出たいという途方もない高望みをし
      ています。


      ※腸洗浄器のことを「熊野出会いの里」ブログでも書いています。
       気になる方はそちらもご覧あれ~ → 「熊野出会いの里」ブログ
# by kumanodeainosato | 2009-07-18 15:18 | よしおくんの健康

「未来を予言する」

      テレビをつけたら、「ビートたけしの超常現象」というのをやっていた。
      
      2012年がどうのこうのと言っている。
      マヤ暦は2012年12月22日で暦が終っているというのは、今ではもうたいて
      いの人が知っているが、それについて侃々諤々。

      チャンネルを変えずに見ていたら、宇宙人が地球をねらっているのだという人
      がいる。
      新種のウイルスも宇宙人が関わっているのかもしれないという。

      少し考えればそんなことあり得ないことが分かるだろう。

      何十か何百か何千か何万光年か知らないが、そんな遠い所から地球にやっ
      てくるほどの科学力を持った宇宙人が、その気になれば地球の一つや二つ乗っ
      取るのは訳ないだろう。

      しかしまあそんなことはあり得ない。
      何故なら科学力がそこまで進んでいるということは、魂のレベルも地球人より
      はるかに高いということである。
      もし霊性が低いまま、科学だけ進歩すれば、科学を制御できなくなり、既にそ
      の文明は亡んでいるはずだからである。

      宇宙人が地球に来ているとしたらむしろ地球を助けたいと思っているからだろ
      う。
      というのは現在の地球はどう見ても宇宙の不良星だし、宇宙の一員として黙っ
      て見過ごす訳にもいかないだろう。
      事実多大な迷惑をこうむる可能性だってある訳だ。

      その他にも太陽の黒点がどうのこうのとか意見は色々出ていたが、最後に予
      言者にきこうということになり、ブラジル人の女性がスタジオに来て、彼女の信
      仰する神に伺いを立てる、その結果。
      「安心して下さい。何も起りません」

      私はそれを見ていて、「あっ、この人は本物だ」と思った。
    
      もっともらしい予言をして人心を惑わすのはあまり質のいい霊能者とはいえな
      い。
      低級な霊能者は自分の波動に近い幽界の波動に同調し、そのスクリーンに映っ
      た未来を見て、恐ろしげなことを言うが、もっと波動の高い霊界や神界には別
      な姿が映っている。
    
      未来というのは、神や運命によって決められるものではなく、自分が決めるも
      のなのである。
      それは予言するものではなく、創造するものなのだ。
# by kumanodeainosato | 2009-07-15 15:30 | プチ熊野大学

「手当て」

      小山君が朝のミーティングの時、ロボットみたいに、首をまっすぐ立てて入ってきた。
      寝ちがいして、痛くてたまらないという。
      顔は正面を向いたまま、横にも下にも曲げられない。
      まるで見えないギプスに固定されているようである。

      これでは仕事どころではない。
      じっとしていても痛くて辛いというので治療することにする。

      私はこれでも鍼灸の免許をもっている。
      ペーパードライバーならぬペーパー鍼灸師である。
      免許は取ったものの、百姓と二足のワラジをはく気が起らなかった。
      鍼も灸も太陽の下の魅力にはとうてい及ばなかったのである。

      従って治療するといっても鍼灸ではなくただ相手の患部に手を当てるだけである。
      それが効くのか効かないのかは、私は全く知らない。

      最近、佐代が腰痛になり、2、3回やったことがあるが、過去においても数える程し
      か経験がない。

      治療が始まる。

      昔、娘の腹痛を治療した時のことを思い出した。
      この時は自分の手から気が出ていることをイメージして、その力で癒そうとした。

      しかし今回は全くちがった。

      私の力は何もないという認識だ。
      ただただ媒体物になる。
      宇宙のエネルギーが、私の身体を通って、相手の身体に流れる。

      「世界人類が平和でありますように」と祈り、神の光を誘導する。
      そして「守護霊様、守護神様よろしくお願いします」この二つをくり返し称え続ける。
      時々「小山君の首がよくなりますように」というのも加える。

      自分は無である。
      ただ神の道具である。
      
      「我」があれば、ショートして電流(気)が流れにくくなる。
      
      五分、十分治療を続けていると、小山君が「大分楽になりました」と言って、ポツリ
      とこう言ったのである。
      「麻野さんの存在を感じません」

      ドキッとして「よっしゃ」と思った。
# by kumanodeainosato | 2009-07-15 10:52 | よしおくんの健康

「露伴と枝豆」

      露伴は枝豆が好きだったそうである。
      あの「五重塔」の幸田露伴である。

      娘の文さんが書いている。

      終戦後、まだ食糧難のころ、父に食べさせようと汗の出なくなる程歩きまわり、
      ある農家で土間に束ねてある豆を見つけ、譲ってもらう話にまでこぎつけた。
      しかし、「これは一等品だから、うちで食う。よそに売るのは二等品、三等品」
      と言われて、二等品でかたづけられたそうな。

      露伴はそれでも喜んだ。
      「それならあの一等品ならどんなに」と思うと残念さがぶりかえしつい愚痴を
      こぼした。
      しかし「百姓は何代、不出来なものばかりを食べて、いいものを売ってくらし
      てきたか。いまちょっとぐらい偉い気になったって、いいじゃないか」とたしな
      められたのである。

      お米の時も、芋の時も文さんが腹を立てると、露伴は「いいじゃないか」と百
      姓を庇い、「お前の方がよっぽど、おっかないよ」と笑っていた。

      買い出し体験をした人は、今でも百姓を親の仇みたいに、口汚くののしる人
      が多いが、実際、百姓の狡猾さ、横柄さ、欲の深さ等の毒ガスを吹きかけら
      れたのだろうが、百姓にとっては千載一遇のチャンスだったのだ。

      露伴同様、百姓のために弁護すると、食糧難のあの当時売り手相場にもか
      かわらず米は自由に販売できた訳でなく、食米(自分の家で食う米)を残して、
      全て国に供出しなければならなかった。
      詳しい制度については書かないが、百姓も収穫量の名目と実質のわずかな
      隙間をぬって、闇米を捻出し、生活費に当てたのである。

      町の人が配給米だけで生きられなかったように、百姓も超安い供出米だけの
      収入では生きられなかった。
      ただ現物を握っているものの強みがあったのである。

      ついでに言うと、昨今、というよりもう随分昔からこの国では米余りになってい
      る。
      米が余ったから減反しろ。
      足りない時は統制を加えて、自由に売らせないで、余ったら自分で売れという。
      これじゃあ百姓はたまったものでない。

      百姓はそういう割を常に食わされ、そういう歴史を生きてきたので、自分が有
      利に立った時、相手に対してどういう態度をとったらいいのかという文化とは無
      縁だった。
      態度が横柄で尊大だったとしても、その背景には虐げられてきた過去がどっさ
      り詰まっているのである。
    
      そんな話を、朝のミーティングの時していたら、小山君が口を開いた。
      彼は丹後の出身であるが、親戚の農家のおばさんにきいた話をしてくれた。

      食糧難の頃、町の人に米を譲って欲しいと頼まれて、あり余っている訳ではな
      い米を譲った。
      そのうち親しくなり、その人の家に遊びに行ってみると、台所の洗い場のおひ
      つや茶碗に米粒がくっついていた。
      それを見ておばさんは腹を立てたという。

      ここに米を作る人と食べる人の意識のズレがある。

      食べる方は、食べるだけのドライな立場にいるが、作る方はそのプロセスの大
      変さに関わっているので、一粒一粒に対する思い入れがまるでちがう。
      まして機械化以前の米作りに於いておやである。

      これをつなげるのは露伴のような想像力であり、懐の深さである。
   
      文さんはこのことについて今でも父に感謝しているそうであるが、そのおかげで
      彼女は百姓や農村に対する嫌悪や偏見を持たずに済んだのである。

      しかしひとこと蛇足としてつけ加えておくが、露伴が鷹揚で、物解りがよく、文さ
      んが愚痴っぽかったのは、露伴の方が偉いのではなく、買い出しの現場にいた
      当事者と、買い出したものを享受するだけの立場にいたもののちがいである。

      そうはいうものの父には娘に正論を納得させるだけの人間としての実力があり、
      娘にはそれを素直に受け入れる器量があったということだ。
# by kumanodeainosato | 2009-07-11 16:04 | プチ熊野大学